MONODRAMA 1
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そもそも芝居をするということが、自分にとってどういうことなのか、僕は未だによくわかっていない。別にプロの俳優なわけでもないから、そんなに深く考える必要のあることではないのかもしれない。
でもやっぱり、何かを演じるということがどういうことなのか、ことあるごとに考えてしまう癖が抜けない。一般人でただの劇団員に過ぎない自分のような人間でも、それなりに長く芝居を続けていると、芝居で別の人格を演じるということがどういうことなのかを、いつまでもくよくよと考えてしまうようになるものなのだ。
何を見ても、誰を見ても、僕は自分があれを演じるとしたら?と考える。喫茶店で言い争う男女を見て。獣のような目つきでゴミを漁る浮浪者を見て。電車の補助席に座ってぬいぐるみに話しかける不気味なマスク女を見て。人間だけではない。シャーレの中で増殖していくが不気味なガン細胞を見て。スペース・シャトルに無理やり乗せられて、地球の周りをぐるぐる回ることになってしまったかわいそうな犬のことを想像して。夜、駅前で小さく震えながら点灯している電話ボックスを眺めて。
幼い頃から「相手の気持ちをよく考えましょう」と言われ続けてきたからだろうか?いつからか僕にとって「相手の気持ちを考える」ということはつまり、「どう演じるか考える」ということとイコールで結ばれてしまっている。相手の言動から所作から表情から声の調子から。僕はあらゆる可能性を吟味し、推し量り、想像する。
そしてさらに言えばそれは、いつの間にか「疑う」という言葉にも置き換えてしまうことができるようになっている。
人は誰もが何かを演じている。シェイクスピアもそう言っている。
“世界は一つの舞台で、すべての男女は役者にすぎない。登場し、退場していく。人はその時々によって、様々な役を演じる。”
誰もが何かを演じている。それが本当なら、僕にとって事態は少し複雑になる。
僕にとって芝居というのは「人が演じているものを演じる」ということになる。人がその心根の上に被っている皮を被るということだ。見えている一番表面の部分をなぞるだけでも、それは一応は芝居になってしまうことになる。
だが、どこまでその皮をめくって相手の真実に近づいていけるかということが、芝居を演じる上で必要なことになってくるのだろうと僕は考える。僕は相手を疑う。相手の真意を探る。
そこが僕とウルシバラの間で、意見が食い違うポイントのひとつだ。
「そんな複雑なこと考えながら芝居してんのはワカバヤシだけなんちゃう」と、ウルシバラはゆっくりした口調で言う。
舞台の上には僕とウルシバラしかいない。スポットライトの明かりによって、僕とウルシバラの影が花びらのように散らばっている。
「俺がワカバヤシを演じるとしたら、いつもしかめ面しとく。こっちが一個なんか言うたら、しばらく頭の中でそろばん叩くみたいな時間があって、うーんそやな、みたいな微妙な返事しかしてこーへんみたいな。古くてでかいパソコンがクリックのしすぎで固まってるみたいなイメージ」
「ううーん」と僕が唸ると、ウルシバラは無表情になって腕を組み、一呼吸置く。
「でもそういうワカバヤシの気持ちを、何だかおれはわかる気がする、って思い込むところが俺としては大事。あくまでそんな気がするってだけやけど」
そう言うウルシバラの目は、やはりどこか虚ろに見える。鏡が実体を持たない煙を映し出すような色だ。
僕は腕を組み、ウルシバラから舞台の下へと目線を外す。
舞台の上から、客席は見えない。照明が眩しい。
「僕がウルシバラを演じるとしたら、まず笑ってても目は笑ってない、っていうのを練習する」
わーめっちゃショック、と言ってウルシバラはまた笑う。わざとらしく目を細めて。
「ウルシバラがウルシバラ自身を演じるとしたら?」と、僕が禅問答のような問いを投げかけると、ウルシバラはすぐに、「シェイクスピアが言ってることがほんまなら、そのままでええからな」と答えた。
「ワカバヤシは?」
ワカバヤシがワカバヤシ自身を演じるなら、どう演じる?
そうウルシバラが言った瞬間に、舞台の明かりが落ちる。静寂。
僕だってそれなりにいろいろな役を演じてきている。幾つもの皮を被ってきた経験がある。
それを剥き切ったところに何があるのかということは、考えたことがない。
僕は袖の暗がりから、再びスポットライトの点いた舞台の真ん中に向かって歩いていくところを想像する。袖幕から出て、自分の身体が観客席に晒された瞬間から、僕は役を演じる。それまでの僕は、たちまち舞台の上からいなくなってしまう。
そして観客席には僕が現れる。本番であろうが、リハーサルであろうが、芝居をするときはいつも必ず僕を見ている僕がいる。そうして観客席の自分と向かい合わせになっているときにだけ、僕は自分というものを意識することができる。
僕の考える理想的な芝居というのは、そういうものだ。
平凡で何の特徴もない僕が、人生で唯一胸を張ってこれをやっています、と言えることが「芝居」だ。それ以外のことは、残念ながら今のところない。
そういう僕の皮をすべて剥いでしまったあと、そこに何があるのかなんていうことは、考える価値があることなのだろうか。
部屋でぼけっと爪を噛みながら、僕はそんな取り留めのないことを考える。どれくらいそういう日々が続いているだろう。群青色のシーツの上に身を横たえる。テーブルの上には、若草色の表紙の台本が置かれている。灰皿になすりつけた吸殻が熱を失い、ゆっくりと冷えていく。
シェイクスピアの言うとおり、「人は常に何かを演じている」というのが本当であるとすれば、今この瞬間の僕は何を演じているのだろう?何に対して演じているのだろう?果たして、たった一人で「演じる」という行為を為すことは、本当に可能なのだろうか。演じる僕を見つめる眼差しがなければ、演じるということはできないのではないだろうか。
と、思ったその瞬間に爪を噛む僕を舐めるように見つめる僕の眼差しが生まれる。
僕は爪を噛み続ける。正確には爪と指の間のもう生きていない皮を噛む。カメラは唾液に濡れ血の滲む指先を捉える。口の中には鉄の味が広がる。カメラが切り替わり、爪を噛む僕の虚ろな目が正面からのアップになる。それは確かに難しいことをくよくよと思い悩む人間のように見える。何を考えているのかわからない。異常な目つきにも、ただ惚けてしまっているだけにも見える。
でもこうして、何かの目線を意識することによって初めて、僕は生きているという実感を得ることが出来る。
そして僕は若草色の台本を手に取り、声に出して読み始める。地の文もセリフも平坦な調子で読んでみる。黙読するよりも、物語の中にうまく入っていくことができる。
暗転。
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