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子ども日本風土記 (長崎) 「とうさんのおもかげ」


とうさんのおもかげ

嵐の時、海岸の岩の上に立って沖を見ていると、ふと父と過ごした幼い日々が頭に浮かんでくる。
父は、色黒で筋骨たくましくて、いかにも海に生きる勇者といった感じだった。
久々に家に帰って来た父といっしょに風呂にはいると、潮水と何日も風呂にはいっていない汚れのにおいが、ぼくの鼻につたわってきて「くさい」と思わず叫んだものだ。
しかし、父はすこしもおこったようすもなく、それどころか「これが、海に働いている者のにおいだぞ。こういうにおいはめったにないから、袋につめて冷蔵庫にしまっておけ。かあさんに、においをかがせてごらん」と冗談を言って、ぼくを笑わせた。

たまの休暇には、家族といっしょに長崎の中心街に出た。
中心街ですることはいつも決まっている。
まず、いろいろなゲームをしたり、乗り物に乗ったりして遊び、つぎは食事をする。食べる物を決めるのがひと苦労だ。
いろいろな食べ物が目について、まよってしまう。
が、結局は父の言うとおりになる。
つぎが買い物だ。
妹は、デパートに入っては、自分の好きな物をいろいろねだる。
父は、最初はおこっているが、最後にはそれを買ってやるのが常だ。

また夏には、トンビ岩やお宮の後ろに、よく海水浴にいったものだ。
父はぼくを背中におぶって、海の中をさかなが泳ぐように、すいすいと水をかきわけて進んでいく。
ぼくはそのころは、まだカナヅチだったので、恐ろしさのあまり泣きだすこともあった。

しかし、父と過ごした幼い日はもうかえってこない。
それどころか父は帰らぬ人になってしまった。

あれは小学四年生も終わりに近い二月のことだった。
その日は、父はいつもより張り切って家を出ていった。
それは、父の弟が、三日後に数年ぶりで式見に帰ってくるということだったからだ。
長崎を出港してから二日日、漁を終えた父たちは、二隻で五島をあとにし、式見へと向かっていた。
その日は海が荒れ、とても出港できる状態ではなかったそうだ。
でも父は弟に会いたい一念で、胸がいっばいだったのだと思われる。
一隻の船は、この嵐でとても帰られそうにないと思ってか、途中でひっ返していったそうだ。
しかし、とうさんたちの船は、嵐の中を猛然と、ただ式見めざして進んでいた。
そして、無情な波はとうさんたちの船をのんでしまったという。
とうとう、とうさんは、二度と帰ってくることができなかった。

最近どういうわけか、父のことを思い出すことが多くなった。
それは中学三年という人生の第一関門にたっているからだろうか。
進学するにしても、就職するにしても、やっばり母親だけでは頼りないと思う時がある。
父だったら、こういう時にはこうしてくれるのではなかろうかと考えると、母にすまないと思っていながらも、かっとなったり、ついあたってしまう。そのあと、たまらなく悲しくなって泣きだしそうになったこともある。

しかし、母も祖父も祖母も、ぼくの将来のことをいっしょうけんめい考えてくれている。
ぼくも、もうくよくよしてはいけないと、自分に十分言いきかせている。

                    ( 長崎市 式見中 三年 田村 秀明 )



***

なくなった「おとうさん」は、情が深いというか、子煩悩であり、子ども達にとっては、本当に「いいお父さん」だったのだろうと思う。

式見には、海水浴に適した場所はなく、「トンビ岩」付近は、岩場であるので、泳ぎが達者でなければ、危険な場所である。

私は、娘が幼い頃、このトンビ岩から、もう少し南にくだった白浜海岸に、バイクで二人乗りをして海水浴にきたものだった。
たいがい娘がクラゲに刺されて、涙目で帰ることになるのだが、近くにあった小さな商店や、式見の町の中にある小さなスーパーでアイスを買ってたべた思い出は、忘れられない。
そんな店も、今はすべて無くなってしまった。


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