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子ども日本風土記 (福島) 「 ばっぱ(おばあさん) 」



ばっぱ(おばあさん)

学校から帰ると、ばっぱが前の畑で、なっぱのたねをまいていた。
そこにいくと、
「たねまきすんのにつかうだから、お寺さいって、おがくずもらってこう」
と、いわれた。
ふくろにつめてはこんで、もってきた。
それをまいて、たねをおいて、たおれそうなかっこうになって土かけをしていた。

夜になると、また、たばっつらもじり(束ねる藁をなうこと)だ。
「啓三もてつだってくいよ(くださいよ)」
ばっぱにいわれた。
「どおれ、もじっか」
あんちゃんも わらをひろげた上にこしかけた。
あんちゃんは、いそがしい時期だけ、家の手伝いをするので、もどってきているのだ。
ぼくは、ひとつひとつ、ていねいにかぞえる役だ。
 「なあ、ちゃんとそろえろ。イネかってしばっ時、ちゃんととんにど(とれないと)だめだがんな」
ばっぱがいった。
ばっぱは、ちょっともじっては、首をまげたり、やすんだりしている。

このばっぱが、ひとりで、いっつも山にでかけ、夜もこんな仕事をしてるんだ。
くたびれんのは、あたりまえだな。
もう七十歳もすぎてんのに、仕事をしろというのは、むりなことだ。
ぼくはつくづく思った。

それというのも、とうちゃんが死んで、かあちゃんも病気がちで、仕事はできないし、あんちゃんも出かせぎに出かけて、ブルの運転手をして山で仕事をして、すこしでもかせいで、現金をとらなければならないからだ。
今は、須賀川で、仕事をしている。かぜが、うんとふくとこらしい。
ブルの運転手は、もうかっけんとあぶない。
この前だって、つよしさんげの上で、ブルがひっくりかえり、運転手が上にとびあがったからよかったものの、ブルの下じきになって死んじまうところだった。
ブルはあぶない仕事だ。
ばっぱは、あんちゃんがくるたびにいっている。
とうちゃんは、ぼくが、三歳の時、心ぞう弁まくしょうの病気で死んだ。
その時、ぼくは、とうちゃんを入れたかんおけを、
「とうちゃんごど、なんで入れんだ」
となきながら、けとばしたのだそうだ。
今は、ほとんどおぼえていない。 

その時、ばっぱは、
「これから、どうやって生きていんぺな」
と、かあちゃんと二人でないたのだそうだ。
「子どもが、四人もいんのに、どうすっぺ、どうすっぺ」
かあちゃんも、かなしんだのだそうだ。
とうちゃんが、死んでから、四日目。
かあちゃんは、山仕事から帰る途中、とうちやんのことを考えながらあるってて、足がすべって、そばにあった石に頭をぶっつけてしまった。
頭がぼっくりふくらんでいた。
それをうちのみんなにだまっていた。
夜になって、頭いたいとうなりだして苦しんだ。
きん所の人たちも集まってきて、心配してくれたのだそうだ。
務川先生にきてもらうと、
「あと一日もおけば、死ぬとこだったわい」
といった。
そしてすぐ、「入院しなくてはならない」といわれたのだそうだ。
入院ならたいへんだ。
ばっぱひとり、病院にかよったりしなくてはならないし、入院費もたいへんだ。
「子どものことは、心配すんない」
みんなから、心配してもらった。
そして、やっぱりかあちゃんは入院した。

それ以来、家の仕事は、かまんちおくように(かまわないでおくように)なった。
村の共同作業などの時は、いつも人にたのんでやった。
かあちゃんの病気は、それからよくならず、中島に入院したり、福島、郡山などに何回も入院した。
ばっぱは、なん回も、かんびょうにかよった。
何回かよってもよくならず、かあちゃんは、家にもどってきて、休んでいるようにして、いままできた。
今でも、かあちゃんは、時どきくらくらっとする。
そのたんび、ばっぱは、ほんとうに心配してうろうろする。
だからかあちゃんは、ひるは休んでいるのがほとんどで、夜の食事の準備くらいをやっている。
今でも、二週間に一回ぐらい医者にいく。それでもなおらない。
そしていっつも、 一日に二、三回ぐらい、頭いでという。
そして、すこしたつとなおるのだ。

ぼくの家は、あんちゃんはでかせぎにいっているので、山のことでも、ばっぱひとりでやらなければならないことになっているから、いろいろごまかされることもでてきた。
この前だって、杉を売った時、日じるしをつけたのを切らないで、太いのばっかり切られてしまったことがあった。
ばっぱは、山に見にいって、それをみつけて、
「男の人いねど、思って、ごまかされたのがくやしい」
夜、ねる時、毎ばんいっていたのだった。
ぼくもくやしかつたが、どうしようもなかった。
このばっぱも、からだがいたくなると、「とうちゃんも、かあちやんも、あんなになんねげれば、おれは今ごろ、楽にしていられんのに、いんきょのばっぱら、小型テレビもかってもらって、のんきにねでんのになあ。でも、この家にいるかぎり、働かなんねな」
なんて、いうようにもなった。
この間も、夜ねる時、
「せなかびりぴりすっから、啓三みてくいよ」
といって、せなかをだした。
白いものが、ところどころに、できていた。皮がうすぐなって、シャリシャリしている。ところどころが、皮がむけているのだ。せぼねもでていて、少し、むらさきになっているのだ。
「たぶん、たむしでねえのがな」
かあちゃんも、心配していった。それに、せぼねがでている。
だから、ばっぱのたがら(しょいかご)にも、やせうまにも、ざぶとんがつけてあるのだ。
手足もひどくなっているのにおどろいた。
手のきずも、すごくあるし、まっ黒なのだ。
今では、なんだかきゅうに、力がなくなったように思える。
だんだん、ばっぱもむりができなくなった。
ばっぱは最近、頭がクラクラするので、四日もねていた。
そんじも(それでも)なおんねくて、山仕事にはいかないで、ねたり、朝ご
はんたきなどをしている。
朝おきる時、やっとおきるくせに、やっぱり、むりしてやっている。
今もうでがいたくて、医者にいって来たら、これはリウマチだわいといわれたらしい。それでもむりしている。
この前、牛の草つけに行った時もそうだった。
ぼくが、五わとも一りん車につけようとしたら、
「一ぱおいでいけ」と、ばっぱがいった。
「せ中いでのに、しょわなくたっていいばい」
といっても、
「一ぱしょつていかねっか、歩かんに(歩かれないの)だ。
と、わらっていた。
しょう時だって、ころびころび立つのに、それでも、
そんなことをいうのだ。
こんなむりしてるばっぱには、ひるま、テレビを見たり、お茶をのんだりしていてもらいたいと思っている。
もう、あんちゃんも、二十歳になるし、ぼくも中学生になる。
今、すこしでもかせがなんねと、ブルの運転をしているあんちゃんだって、本気で家のことを考えているのだ。

このごろぼくもやっと、日曜日はあそんでばかりいないで、仕事をするようになった。
はやくぼくは、 一人前にならなければいけない。


                                                              ( 石川郡 中谷第一小 六年 南条 啓三 )

子ども日本風土記(福島)


父親を亡くし、怪我から病弱となってしまった母と兄、祖母と暮らす小学校6年生の児童の作文である。

まずこれだけ長い作文を綴っているところに、厳しい生活の現状を真剣に見つめていることがうかがえます。

作文を書いた本人が手伝いの時に、刈り取った草を運ぼうとした時、冗談を言いながらも、手伝ってくれたおばあちゃん。

そのタイトルは、運命にも高齢にも立ち向かう力強い祖母(ばっぱ)であることは、うなづけます。

厳しい東北の自然と対峙してきた女性にとっては、弱音など吐かず、笑顔で孫に応えることは、当然のことだったのでしょう。




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