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子を持つ親となって20数年、再び「自転車泥棒」を観る

娘が通う専門学校の課題で、映画を扱うものがあり、その中で「映画の中の印象的な食事のシーンは?」という話題になりました。

私がまず浮かんだのはチャップリンの「キッド」。そして、「自転車泥棒」でした。
いずれも父親と幼い息子が食事をするシーンで、貧しい境遇にありながらも懸命に生きる父子を描いたものです。

娘に「自転車泥棒」を紹介する前に、いったいどんな食事のシーンだったのか、もう一度観てみることにしました。

この「自転車泥棒」を初めて観たのは、20歳の頃。いたく気に入りました。

「アントニオが自転車を質屋から出した後、奥さんをハンドルのすぐ後ろに座らせて二人乗りをするシーン」

「アントニオが息子ブルーのを待たせて、川の近くで盗人を探している時に、『子どもが川に落ちたぞ!』という叫び声に驚いて、ブルーノを探す姿と、階段の上にちょこんと座っているブルーノを見つけて、ほっとするアントニオの表情」

「最後、悲しい出来事の後、アントニオとブルーノが並んで家路につくシーン。特に、ブルーノがそっと父親の手を握るとアントニオが強く握り返すところ」

好きなシーンは変わっていませんでした。

しかし、今回、新たに感じたことがありました。
それは、ヨーロッパ人の精神的社会の高さでした。

最初、私は「イタリア人たちは、自転車に鍵をかければいいのに!」と思いました。

しかし、そのように考える時点で、まだまだ私たち日本人の精神的社会は低いレベルと言わざるを得ないと思います。

「自転車泥棒」の時代背景は、第二次世界大戦の終わった直後です。
街には失業者があふれていました。

しかし、街の中で自転車が盗まれると、周りの人が一斉に追いかけてきます。
自転車が見つからないと、仕事を休んででも手分けして探してくれます。

そして、アントニオが盗みを働いて捕まった時も、そばで幼いブルーノが泣いているのを見た持ち主は、「もういい。放してやれ!」とみんなに言いました。
慈悲の心というものがあります。
映画の中では、貧しい人たちに祈りと食事を与えていたカトリック教会のシーンもありました。

これは、時代だけのせいではありません。

私がドイツに住んでいた友人を訪ねて行った時のこと。
市内を走っている路線バスの乗り方を友人に尋ねました。
すると街中にある発券機でチケットを買えばいいと彼は言いました。
それでチケットを買った後、バスに乗って、ある場所でバスを降りました。
しかし、買ったチケットを入れる、料金箱のようなものはありません。
チケットを持ったまま、バスを降りました。
その後、友人に「これだと、誰でもただでバスに乗れるじゃないか?」。
すると、友人は答えました。
「いや、そういうものなんだ!」と。

ヨーロッパには、こういう「罪」という意識が根底に根付いているのだと、その時私は思いました。




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