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実際に長く生きている事よりも、人の心の中に、長く生き続けているか?の方が大切な事 

過日、高橋源一郎の「飛ぶ教室~はじまりのことば」の中の一編を読んで、とても心が軽くなった。
高橋氏の大好きな文章の1つとして、現代詩作家である荒川洋治さんの「会わないこと」の中の言葉を紹介しつつ以下のような文章で結んでいる。

(前略)
「何処にいるのも同じこった。来年の体みにはまた来い」
と言ったのだった……。
この随筆は、この一言で終わる。
いつもそばにいたり、 一緒に暮らせるのはうれしいことだが、会わないとしても、それはそれでいい。会うのと同じことだよ。
伯父さんは、そう言いたいのだろう。
(…↓近しい人と、ある期間、それも長い間、「会わないでいる」ということは、どういうことなのだろう(……)。
楽しい時間を過ごした、あるいは、いまも心がつながっていて、でも、そんなに行き来するほどの関係ではない人。
そういう人を、遠くから感じていること。
それは人間にとって、どういうことなのだろうと。
あの人はいま、何をしているのだろうか。
電話、手紙でも知ることはできるが、それはしない。
相手は元気であろうと思うからだ。
思うことが、知ることに近い。それで心が安らぐ。
でも会っていないということは、相手が「死んでいる」ようなものだ。
姿もかたちも「無い」。
その点をみると物足りない。不安にもなる。
よくも、こんなに大きな不安をかかえながら、これまでの人類はやってきたものだと思う。感嘆する。
反対に、相手が亡くなった人だと、会うことはできない。
だとすると、「会わない」状態のなかで、耐えていることは、相手もこちらもが、いのちをもつ、つまり生きていることのしるしなのだ。

生きているしるしが、「会う」ことよりも、「会わない」ことのほうにあるのだ。それは大きな世界だ。

岩波新書「高橋源一郎の飛ぶ教室 はじまりのことば」


反対に、相手が亡くなった人だと、会うことはできない。
だとすると、「会わない」状態のなかで、耐えていることは、

相手もこちらもが、いのちをもつ、つまり生きていることのしるしなのだ。


私が、私の亡き大切な馬ひん太を想い続け、記し続ける限り対州馬ひん太は、「生きている」。
人に想われている限り、生きている。
確かに、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホもアンネ・フランクも生きている。
2人は、けっして不幸の中で亡くなったのではない。

物語の中で語られている人もそう。
「アラバマ物語」の中で語られたアティカス・フィンチも生きているのだ。
もちろん生物だけではない。
物、場所、風景だって、誰かが想っている限り生き続ける。
そして、誰かによって記し続けられる限り、生き続けるのだ。



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