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ウィリアム・ユージン・スミス

数日前、ジョニー・デップがアメリカの写真家ユージン・スミスを描いた映画「MINAMATA」の制作・主演をしたというニュースに触れ、嬉しくなりました。ユージン・スミスは尊敬する人物の一人であり、たまたま前日同氏のことを書いた自分の2008年のブログ記事を読んでいたからです。

その記事中からエピソードを下に再掲載します・・・。

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*第2次大戦中、従軍カメラマンとしてサイパンに赴き、凄絶な現状に遭遇。大怪我をして道端にうずくまっている日本人の少女を助け上げ、側を通りかかった米軍車輌に救護所まで乗せて行ってくれるように頼むが、「お前だけなら乗せて行ってやる。そんなもん(子)はその辺に捨ててしまえ!」と言われる。憤慨したユージンは、その少女を抱きかかえたまま15キロを救護所まで歩いて行った。

*とにかく仕事に対する集中力は尋常ではなかった。一週間徹夜を続け、一週間目に巨木が倒れるようにその場で崩れ、眠りに落ちた。

*自分の写真については、とにかくこだわりがすごかった。自分の納得しない写真は絶対に掲載を許さなかった。それが「LIFE」のような超メジャーな雑誌が相手でもその姿勢は変わらず、その為に「LIFE」を飛び出すことになった。

*被写体となるもの(人)を徹底的に調べてから撮影に望んだ。撮影に入るまで、数ヶ月に渡って資料を貪り読んだり、調べるなどした。

《wiki pediaより》

カンザス州ウィチタ出身。母方の祖母が、ネイティブ・アメリカンのボタワトミ族の血筋もひく。 スミスの父親は小麦商を営んでいたが、大恐慌で破産し、散弾銃で自殺している。スミスはこの影響で早い時期から人の命や医療、ケアに強い関心を持ち続けた。
第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣される。1945年5月、沖縄戦で歩兵と同行中、日本軍の砲弾の爆風により全身を負傷し、約2年の療養生活を送り、生涯その後遺症に悩まされることになった。その期間を振り返って、スミスは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。

1954年には『アルベルト・シュヴァイツァー A Man of Mercy』を巡って再びライフ誌編集部と対立し、以後関係を断ち切ることになった。

1961年、PR写真撮影のために来日。

1970年、アイリーン・美緒子・スミスと結婚。ともに、チッソが引き起こした水俣病の汚染の実態を写真に撮り、実際に座り込みなどにも参加するなど、世界にその悲劇を伝えた。1972年1月、千葉県のチッソ五井工場を訪問した際に、交渉に来た患者や新聞記者たち約20名が会社側の雇った暴力団員に取り囲まれ、暴行を受ける事件が発生する。スミスもカメラを壊された上、脊椎を折られ片目失明の重傷を負う。この事件でスミスは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。その後『ライフ』1972年6月2日号に「排水管からたれながされる死」を発表し、大きな反響を得た。

1977年12月、脳溢血で倒れる。翌年奇跡的に回復し、セミナーを行うまでになったが、1978年10月15日にアリゾナ州トゥーソンの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、致命的な発作を起こし死去。59歳。


最も有名な写真の1枚として、水銀に冒された少女をお風呂に入れる母親のものがあります。彼女は智子ちゃんといい、胎児性の患者でした。
智子さんは1977年に21歳で亡くなっていますが、それはユージンが倒れた年と重なっています・・・・・。
彼女の死後、何度も使われた写真に対し、母親は「もう智子を休ませてあげたい」と言われたそうです。よくわかります。この写真は簡単に掲載したりする性質のものではなく、一人一人が記憶の中に焼き付けなければならないものだと、私は考えています。
そして、ヒトの親となった今、その写真から語りかけてくる言葉はずしりと重みを増してきます・・・。

尊敬してやまないユージンだが、私が一番好きな彼のポートレートは、下の1枚なのです・・・・・。
誰が撮ったのだろう・・・・

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