見出し画像

子ども 日本風土記〈大阪〉より① 「 あとつぎ 」

あとつぎ

おとうちゃんに、夕ごはんの時ぼくはこういう話をした。
それは、あとつぎの話だ。
「ぼく、おとうちゃんのあとつぐわ」というと、おとうちゃんが、
「おとうちゃんの仕事は、おとうちゃん一代だけでいい」
と、わらいかけの顔でいった。

ぼくがしんけんに話をしているのに、おとうちゃんはぼくがいいかげんでいってると思っているみたいだ。

こんな本を、ぼくは読んだことがある。
それは、あとをついで金持ちになった話だ。
ぼくは、それをねらってあとをつぐのではない。
きかいが八台もあるのだから、それがつぶれるまでぼくは使いたいのである。
それは七十万するきかいが、おとうちゃんだけでつぶれるわけがないのだから、売るのはもったいないからだ。

そしてもうひとつは、男の人より女の人のほうが長生きするからだ。
だから、おとうちゃんが死んでしまったら「おかあちゃんひとりで八台のきかいを、よう動かせないから、ぼくもてつだって、おかあちゃんをらくにさ
せる。

おかあちゃんとおとうちゃんが、らくにくらせるようにいのっているが、それを、おとうちゃんとおかあちゃんは、
「セーターで楽にくらせるわけはない」といってわらう。

それがだめなら、おとうちゃんたちの仕事の話を聞くと、今、糸のはいりぐあいがわるいらしいので、そっちの方へはたらきに行って、糸のはいりぐあいをのうりつ的にやれるようにしてやろうと思っている。
それが、ぼくの大きなゆめである。

でも、おとうちゃんは、ぼくがそんなに大きくなるのは先のことと思っている。
                                          (泉大津市旭小 五年 橋本 学)

子ども 日本風土記〈大阪〉より

***

この「子ども日本風土記」が刊行されたのは、昭和47年ですが、もうすでに「不況の波」が押し寄せてきていることがうかがえます。

ネットで調べてみると、以下のような記述が見つかりました。

太平洋戦争の貧困の中、毛布どころではない時代が終わり、昭和24年(1949年)から生活が豊かになっていくごとにどんどん毛布の需要は増えていきました。ガチャンと織れば万のお金になる「ガチャ万景気」とまで呼ばれました。

毛布の開発も進み、スフ毛布やタフト毛布が開発され、電気毛布, こたつ毛布, 夜着, 敷物など商品の多様化も進みました。


その後は毛布が広く行き渡り、毛布の過剰生産による価格の暴落なども起こり、昭和46年(1971年)をピークに生産量は減少傾向をたどっていきます。

平成に入ると今までにない安価な中国製の毛布が登場し、輸入毛布量はどんどん増えました。平成7年(1995年)には日本の国内生産量を輸入量が上回るまでに。


それに伴い国内の毛布工場は減少し、毛布一貫工場は現在において織毛布とマイヤー毛布で弊社を含み各1社ずつしか残っていません。

さらに平成29年(2017年)には、分業工場のひとつとして唯一残っていたプリント染色工場も廃業、毛布のスクリーンプリント機は弊社たった1台となりました。

森弥毛織株式会社HPより

当時、70万の機械を導入しても、原料の仕入れ状況が悪く、先が見通せないという状況。
それをなんとかしたいと思う、小学5年生の筆者は、大人となんら遜色ないほど、現実と言うものに向き合っていると感じます。

この後、稼業がどうなったかはわかりません。
おそらく筆者が後を継ぐような流れにはならなかったような気がします。
しかし、筆者は、何よりも得難い学習と体験をしたのではないかと思います。

残念ながら、私にはこういった体験がありませんでした。



※「チップ」は有難く拝受させて頂きます。もし、この記事が多少でも役に立った、或いは「よかったので、多少でもお心づけを」と思われましたら、どうぞよろしくお願いいたします。贈って頂いたお金は1円たりとも無駄にせず大切に使わせて頂きます。