蒼い山の高台に、自治の花開いたヤマ ~ 吉井町・宏安炭鉱
佐世保市(旧北松浦郡)吉井町直谷免。松浦市との境にも近い山中にあったのが宏安(こうあん)炭鉱です。
現在の同地です。現在は社会福祉法人あしたば会さんの施設が建っています。正面の白い建物は、吉井潤心学園です。訪問の意図を伝えると、快く敷地内の撮影を許可していただけました。
宏安炭鉱は昭和27年、元九州石炭鉱業連盟次長であり、ワンマン社長と言われた安西 豊により開坑されました。
まだこの頃は坑員さんの労働時間が12時間という時代です。
「宏安炭鉱」の看板のあった場所から目の前を流れる福井川を上流・世知原町方面を見たアングルです。この辺りの景観は昔から大して変わっていないのではないかと思います。
逆アングルは商店の連なっていた吉井町・下直谷方面です。ほうろう看板も朽ち果てていますが、近所の方の話では、この通りは多くの商店が並び、人の行き来も多かったそうです。
潤心学園の裏手にまわると、どんぐりに混じって石炭の小片が転がっていました。そこから急な斜面をよじ登ります。
下からはまったく見えませんでしたが、草木に覆われた斜面には、石炭を貯めておいて下に落としていたと見られるコンクリート製のポケットが見事に残っていました。最初の古写真の中に移っているポケットのようにも見えます。
近寄って触れてみても、劣化が少なく、がっしりとしています。随分と頑丈な造りであったようです。
ドロップ口の下辺りは、かろうじて陽がさすのか、樹木が育っていました。
昭和42年1月の閉山から、早や今年平成24年で、55年間。ポケットの中に芽吹いた木も、これほど成長したのですね・・・
鉱業所や住宅は山の上の高台にありました。現在は荒れ果てているので、おそらく進むことさえできないだろうと覚悟していたのですが、意外や、人ひとり通れるくらいに、雑草がきれいに刈り取られていました。
これは、後からわかったことですが、近くに高圧線の鉄塔があり、数日前に電力会社の点検作業の為、刈り取られたのでした。その点では非常に幸運でした。しかし、施設などは、何も見つけることが出来ませんでした。
かろうじて確認できたのは、このコンクリート製の入り口のようなものだけです。
中は完全に土砂でうまっていましたが、何かを下に落とす為のものか、あるいは作業をするための人道口であったかもしれません。しかし、これもまた劣化の無い、頑丈な造りでした。
森の中を抜け、東に進むと開けた場所に出ました。今はあしたば会さんの施設「老人ホーム・サンフラワー」が建っています。
おそらくこの辺りに鉱員さんの住宅などが建っていたと思われます。高台となっており、縁に立つと遠く江迎・松浦方面の山並みが見渡せます。風がわたり、大変に気持ちの良い場所でした。
同鉱では労働条件の改善や賃金アップなどを目指し、会社と交渉する際、自分達で協力して組合事務所を建てるなど、労組の団結力が強かったと言います。
職員婦人会は保健衛生などを勉強する会「ひまわり会」を結成し、労組婦人会有志もこれに加わりました。月1回例会を開き、時には吉井町保健所とも合同で会を行ったそうです。「炭鉱町の華」でもあった婦人たちのつくった会は、「いつも光のある方をさす」向日葵の名を取ったというのがいいですね。
今、この場所に建つ老人ホームの名前は「サンフラワー」、ひまわりです。この名が「ひまわり会」からとったかどうかは、聞きそこないましたが、生き生きとした相互扶助の精神は半世紀以上経った今も、この地に生きているのだと信じたいですね・・・。
(元記事作成:2012年11月)
※元の住人の方の何らかの手掛かりになるかもしれないと思い、寄せられたコメントを付記しております。(2022年12月)
1. 佐々木公子
2012年11月12日 12:56
コメントを入れやすくして下さったようで、嬉しいです。
昔、吉井町から世知原に住む叔父の家まで線路があった所をひとりで歩いて行った事を思い出しました。今は世知原の叔父も亡くなり、訪ねる事も出来ないですが、おかげさまでいろいろ思い出され、興味深く拝見させていただきました。
ありがとうございます。
2. はやぶさ
2012年11月13日 22:14
佐々木さん
吉井から世知原を子どもの足で、というと結構はるかな道ですね。
今、その世知原線跡は静かな遊歩道になっています。いつか散策などされてみては
いかがでしょうか・・・
3. 山浦義人
2013年04月16日 20:53
私は昭和16年江迎町潜龍の炭住で生まれ竜見町から松原町、岩下町にも住んだことがありました。父親は潜龍炭鉱の労務で働いていたと思います。
小学校も中学校も猪調でした。中学校を卒業後は平戸市で働いでおりましたが、
18歳の時に宏安炭鉱で20歳になるまで働きました。
当時の宏安炭鉱のコンクリート製のポケットのこと、社長の安西 豊さん、確か鹿児島出身だと思ったけど、小柄な愛甲さんの下で仕事をやったことがありました。
私も帰省した時に何度か足を運んだことがありましたので、懐かしく読ませて頂きました。(潜龍駅がボタ山が崩れて流された時には愛知にいました)
将来の事を考えて愛知県に出て、自動車関連企業で定年まで勤め、お蔭様で今は年金暮らしをしています。遠くに行ったらやっぱり故郷は恋しいもので去年も内裏山に登ってきました。途中あった堤でよく泳いだものです。
懐かしい記事に出会い喜んでおります。
dosukoi@sf.commufa.jp
http://blogs.yahoo.co.jp/tiritere/2250082.html
4. はやぶさ
2013年04月17日 21:20
山浦様
自分自身にも身に覚えのあることですが、40ぐらいを過ぎますと、年々、「望郷の念」が強くなるようですね。
炭鉱で賑わった頃の北松というものを実際に見たかったと思います。きっと活気に満ち満ちていたことでしょう・・・。
5. 中村 清
2018年12月04日 21:04
宏安炭鉱の写真懐かしく拝見しました。調川で生まれ、ものごころついたのが小学校一年で宏安炭鉱社宅から、吉井北小学校に通いだした頃です。閉山少し前に、中学二年の春に一家は愛知県に新天地を求めました。未だに吉井町の野山の匂いを覚えています。私も66歳になり、ここ7年、そっと毎年吉井町を訪れます。その昔農家の子、炭住の子、皆仲良く遊んでくれました。
6. 山浦 義人
2022年12月10日 20:14
先回お訪ねして10年近くになります。年が明けると齢82歳になりますが至って元気でやっています。
潜龍炭鉱の竜見町で生れ、松原町、中学卒業後に平戸に2年半、宏安炭坑に2年半、20歳で愛知県の自動車関連会社に就職し定年後20年過ぎました。
5年前に帰省した時には猪調小学校を見てきました。当時の小学校の校歌に
1800の意気をみよと歌った記憶があるので在校生も多くマンモス校だった
と思います。
潜龍炭鉱も一番賑わっていて大きな風呂、映画館、プールに商店街、パチンコのジャラン、ジャランという大きな音を鮮明に覚えています。
今は数少ない同級生とスマホでメールしながら楽しんでおります。
7. 山浦 義人
2022年12月10日 20:22
先回お訪ねして10年近くになります。年が明けると齢82歳になりますが至って元気でやっています。
潜龍炭鉱の竜見町で生れ、松原町、中学卒業後に平戸に2年半、宏安炭坑に2年半、20歳で愛知県の自動車関連会社に就職し定年後20年過ぎました。
5年前に帰省した時には猪調小学校を見てきました。当時の小学校の校歌に
1800の意気をみよと歌った記憶があるので在校生も多くマンモス校だった
と思います。
潜龍炭鉱も一番賑わっていて大きな風呂、映画館、プールに商店街、パチンコのジャラン、ジャランという大きな音を鮮明に覚えています。
今は数少ない同級生とスマホでメールしながら楽しんでおります。
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