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私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その⑱

久しぶりに対州馬が長崎市に帰ってきた

この日、ひん太が、私の放牧地に入ったことで、対州馬ゼロとなっていた長崎市に久しぶりに対州馬が帰ってくることになりました。

たとえ猫の額ほどの小さな土地ではあっても、炭鉱運搬や町づくりに寄与した対州馬が1頭でも戻ってきたという事実は、大いに私自身を励ましました。

考えてみれば、長崎市と対州馬という馬は不思議な因縁で結ばれているのです。

不思議な因縁で結ばれた長崎と対州馬


対州馬の産地は九州西北部に位置する離島、対馬です。

系列としては、モンゴルから朝鮮半島に存在する馬の血統を持ち、かつて対馬では4,000頭あまりが飼育されていました。

特徴としては、小柄ですが脚が強く、急峻な坂を上り下りする力強さがあります。

また性質は穏やかで人懐こく、対馬では女性や子どもがその担当となっていました。

身体も頑強な上、粗食に耐えるので、対馬の農家には欠かせない労働のパートナーとなっていました。

しかし、その特徴が逆手に取られた時代もありました。

明治から昭和初期頃、九州西北部にはその頃のエネルギー源であった石炭の炭鉱が無数に存在し、機械化が進んでいない時代には、対州馬が坑内運搬にうってつけだとして多くが使われてしまいました。

地下数十メートルにも及ぶ坑内の環境というのは劣悪そのものでした。

坑内の温度は常に40℃近く、湿度95%、落盤や地下水流入の危険は随時あり、おまけに発火性の高いメタン・ガズや有毒な一酸化炭素が溜まりやすい。 もちろん昼も夜もなく、四季も無い。

そんな地底で、馬方に青竹で打ち叩かれながら、何両もの炭車を喘ぎ喘ぎ引いたのです。

そして、25年くらいは生きる馬たちは、死ぬまで坑内で働かされ、平均半年ほどで死んでいきました。

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