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子ども日本風土記 (広島) 「 少なくなった牛 」


少なくなった牛

横谷は、音は、どの家も、牛をかっていました。ぼくの家にも、牛を入れてあったあとが残っています。
ぼくの家も、げんかんから入って、右側にはざしきがあり、左側に、牛が入れてあったあとがあります。
でも、今はもう、物置きみたいなものにしてあります。
その中には、炭などが、たくさん入れてあります。
ほかの家にも、牛を入れてあったあとが、残っている所がありますが、やっぱり、物置みたいなものにしてあります。
昔は、牛を、家族のように、あつかわれていたそうです。
そのことは、牛がすむところを家の中にしてあったことからもわかります。牛が病気になったときには、大さわぎをしたそうです。
どうして、そんなに、牛をだいじにしていたかというと、牛は働き者だつたから、そんなだいじな牛に、死なれてはいけないからです。
吉谷という所に、大山さんという牛のお宮があります。
昔は、牛が、病気にかかったりして、死んではいけないので、お祭をして、いのっていたそうです。
今でもありますが、もうぼろぼろで、だれもまいらなくなりました。
今ごろは、どうして、人がまいらなくなったかというと、今は、牛を働かせないで、ただ大きくして、売って、お金をもうけるだけだから、牛が病気になっても、家族ではなくなって、今では品物になっていて、どうということはないから、おまいりをしなくなりました。
だから、今では、牛のお宮はぼろぼろになっているそうです。
横谷にも、少しは牛をかっている家はあるけれど、ほとんどの家は、牛をかうのをやめて、布野にある、熊谷の工場にいったり、 コンクリートエ場に行くようになりました。
ぼくは、牛をかわなくなったのは、昔は、牛を使って、田をたがやしたり、炭を運んだり、田からいねを運ぶのに使ったりしていたけれど、今は耕運機で田をたがやしたり、いろんな物でも、自動車を使って運べばいいから、牛をだんだんと、かわなくなったのだと思います。
牛のことをおとうちゃんに聞いたら、
「そりゃあ、牛がぉったほうがええよ」と言われました。
「なして」と聞いたら、
「そりゃあ、牛がおったら、売ってから、お金になるがの」
と言われました。それでも、牛をかってないのは、どうしてだろうかと思いました。
ぼくのうちでは、牛をかうといっても、ぼくたち、子ども二人は、学校に行くし、おとうちゃんたちは、布野の工場に行ったり、おじいちゃんは、山の本を切ったり、草をかったりするのに毎日出て、家があきっぱなしで、牛のせわをする人がいなくなるから、牛をかってないんだと思います。
でも、昔は、今ごろとちがって、耕うん機も、自動車もないから、牛がいなかったら、日をたがやすのに、くわで、 一回ずつうったり、炭なども、山からおいこでおうてきて、やらなければいけなかったから、ぜんぶの家が、牛をかっていたのでしょう。
昔の人は、
「牛を売ってくれ」と来ても、
「ぜったいに売らない」といつただろうと思います。
今では、そんなことはなくて、機械で仕事をすればいいから、昔と今は、ずいぶんかわったなあ、と思いました。
                  
        (双三郡布野村横谷小四年 中原力)

日本子ども風土記(広島)

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双三郡布野村横谷(現・三次市)は、島根との県境に接する山間の村である。
牛と一緒に田畑を耕したり、物を運んでいた時には、牛を大事にして、牛をまつる神社もあったというのだが、肉牛として売る「商品」となってからは、誰も参る人も無くなり、神社は荒れていった。
小学校4年の少年の心は、何を感じていただろうかと思う。

そんな、牛たちをすて「新しく便利なもの」にすがった村も、結局はすっかりと寂れてしまった。
今では、人も牛も、いなくなってしまった。
横谷小学校も、平成28年に閉校となっている。



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