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平成25年度で閉校した 南島原市立津波見(つばみ)小学校は「孝子の里」である小さな集落の中心

南島原市加津佐町津波見(つばみ)名。島原半島の観光地である小浜温泉のある雲仙市と南島原市の境付近にある小さな集落であり、半島の南端である口之津へ向かう251号線からは集落がよく見えない為、その存在を知らずに通り過ぎる観光客も多いと思います。

251号線沿いに立っている「本朝二十四孝の一人安永安次生誕の地」と記された看板から山側に入るとすぐに集落が現れました。
その中心に建っているのが、南島原市立津波見(つばみ)小学校です。

コンクリート造の校舎の前には、平屋の木造校舎がまだ現役で使用されています。

平成25年10月現在、児童数12名ですが、H14-11人、H15-7人、H16 -10人、H17 -13人、H18-12人、H19 -13人、H20-16人、H21-17人、H22-15人、H23-18人、H24-15人とここ10年は横ばいで推移していました。しかし、残念ながら津波見小は、統合の為、残り数ヶ月で創立130年という長い歴史に終止符を打つこととなります。

創立は明治16年。野田小学校津波見分校としてこの地に開かれました。詳しい資料は残っていませんが、明治16年という時代を考えると、校地の造成から校舎の建設などには、大勢の集落の人の献身的な協力があったことでしょう。

グラウンドからは、集落の棚田や天草灘が一望できます。

校長先生にお会いしましたが、校内を見学することを了承して頂いたばかりでなく、津波見地区について解説して頂いた上に、校地内まで案内して頂きました。本当に有難いことです。

津波見学校の沿革について簡単にご紹介いたします。

明治
16.6.1  創立。野田小学校津波見分校と称する。里部落校舎58坪 運動場156坪 計208坪
19.4月  簡易津波見小学校と称する。
26.3月  津波見尋常小学校と称する。
30.4月  第4学年設置
37.1月  吉野桜20本植樹
  2月  校舎改築移転(校舎50坪 運動場240坪)
39.4.1  裁縫科加設(正科)
41.4.1  第5学年設置 同年6月手工科加設(正科)
42.4.1  第6学年設置
大正
6.1月   開校記念日の儀式を開始
2.3月   校旗を制定 4.24 安永安次の墓参を始める。9月 安永安次の墓地指定標・孝子田標建立
12.8.25 大正11年南高大地震被害校舎大修理 12.25 職員住宅一棟新築落成

昭和
16.4.1  加津佐町立津波見国民学校と改称
22.4.1  加津佐町立津波見小学校と改称(4学級)
25.6.30 新校舎落成 162坪・6学級
26.3月  運動場拡張 665坪 同年電話開通
27.4.24 孝子祭再開 奉納相撲 放送設備設置
30.2.26 ピアノ購入 8月図書館設置 10月水道施設設置完了
32.3月  観察用池・噴水施設設置 校舎周囲生垣植付
34.3.31 校舎増改築(普通教室3、職員室1、特別室1、体育倉庫)
  4月  公民館を改造し、保健室・家庭科室・理科準備室・炊事室を増設する。 
8月  運動場拡張(956坪)
36.10月 公民館を理科室に改造する。
38.1.1  校歌制定。同年ミルク給食開始 (給食室6坪)
43.3.3  給食室落成(39.6坪) 3.18 完全給食開始
44.12  学校給食研究発表会実施
46.11.26学校給食優良校として県教委の表彰を受ける。
47.4.1  複式により5学級編成
55.3.7  新校舎落成(普通教室6・家庭科室・理科室・校長室・職員室・資料室)
57.3.25 体育館落成
58.11.11創立百周年記念式典実施 タイムカプセル設置

平成
1.8月  給食棟改修
25.4.1  単学級1 複式学級2により3学級編成(児童数12名)



あくまで推測ですが、下画像向かって左側の木造校舎は昭和34年の増改築の頃のものでしょうか。もしそうであれば築54年あまりということになり、デザイン・配色・内部構造の似ている築57年の同町・山口小学校と同時期ということになります。

壁のうすいピンクに、屋根瓦のオレンジという配色が、実によく青空に映えていますね。

掃除用具もきちんと揃えてあります。

校長先生より、旧校舎の集会室を見せてもらいました。今はランチルームとして使われているのでしょうか?
こういう部屋があると、集会はもちろん、ちょっとした催しなどもでき、重宝することでしょう。壁面には創意工夫のある掲示がびっしりと貼ってあります。

掲示板にも「詩」が掲示してあり、秋らしくコスモスの装飾で飾られていました。

途中、元気そうな子どもたちにも会いました。ここに載せるわけにはいきませんが、やはり「子ども」がいてこその学校なんですよね。廃校になった後の校舎は、まるで別世界の空間となってしまいます。

校地付近のコンクリート壁にも、子どもたちの卒業制作が残されていました。この年は、津波見地区の主要な行事である「孝子祭」の様子が描かれています。

では、その「孝子の里」の孝子の由来とは何か・・・については、これもまた校長先生が読み物資料(25年度の孝子祭の冊子)を提供してくださいました。

それによると、
『 1670年頃(島原の乱が1637年)津波見名に安永安次という農民がいた。その父安平は、もと筑前の国北原村の庄屋であったが、後に加津佐村津波見名に移住し、人々から推されて乙名を勤めていた。 』

安永安次さんは実在した人らしいので、島原の乱後、ほぼ無人となったこの地に入植したということなのでしょう。
この安次さんこそが「孝子」なのですが、伝承はやや物語っぽくなっておりますが、長崎県小学校道徳資料研究会編の中に見ることができますので、ここに転載したいと思います。(実際はほぼ全文がひらがな表記なのですが、それではいささか読みにくいので、一部漢字にします)

『 おやを おもう こころ
むかし、かづさ村(今の加津佐町)に、大変親思いの 安永安次が住んでいました。
安次のうちは、お米のごはんを食べられないくらい、貧しい暮らしをしていました。
ある日、安次のお父さんが病気になりました。
安次は、はやく元気になってもらいたくて、お父さんに毎日、お米のごはんを食べてもらい、
一生懸命看病をしました。
お父さんが心配して言いました。
「いつも、お米のご飯では大変だろう。お米のごはんでなくていいんだよ。」
「もう、新しいお米ができたので、心配しないで、たくさん食べてください。」と、
安次はうっかり嘘をついてしまいました。
でも、今は夏なので、新しいお米ができるはずがありません。
その夜、安次は田んぼに行って、(はやく稲が実りますように)と、朝まで何回も何回も
田んぼに祈り続けました。
すると、不思議なことに、稲の穂がだんだんと黄金色に実りはじめました。
安次はよろこんで、すぐに稲を刈りました。
それからは、安次の田んぼは、すぐに稲が実り、どこよりも早くお米が取れました。
村の人は、安次の田んぼを「孝子田(こうしでん)」と言いました。
「孝子田」は、今も、加津佐町の津波見小学校の裏に、大切に残っています。 』

これが「孝子田」の石碑です。

その前には、ちゃんと「孝子田」が残っていました。校長先生の話では、今はサツマイモが植えてあり、近々芋掘りをするのだそうです。

また、これはかなり真実っぽい逸話なのですが、資料にはこう記されています。

『 安次は親に対し、孝子であったばかりでなく、法に従い、公を重んじ、人の子としても公民としても誠に篤行の人であった。それでその行為は、弟妹妻子にも感化をおよぼし、一家和風に包まれた。そしてそれは隣近所より部落に広がり、やがて一郷一村みなその風を慕い、良風美俗の里となるに至った。
このことが時の領主・松平忠房の耳に入り、延宝七年(1969)12月5日銀3枚を与えて、その孝を賞した。さらに翌八年4月には諸役夫代免除の旨を仰せ出された。しかるにこれに対し、安次は己れ一人この恩恵に浴するのは忍びないとて辞退を申し上げた。藩候は、さらば何か代わるものを、と望ませたところが、郷民の年貢を半減にしていただきたいと願った。藩候はこれを許した。 』

己の欲望を捨て、他者のことを思いやった安次の行いももちろん賞賛されるべきものですが、私はこの文章の中の「・・・それは隣近所より部落に広がり、やがて一郷一村みなその風を慕い、良風美俗の里となるに至った。」という部分に注目したいと思います。
安次の公徳心・人柄というものは、今も尚この地区には漂っていると思われ、そのことを示す逸話を校長先生が紹介してくれました。(毎年、安次の命日である4月24日には「孝子祭」が催されているそうです。)

給食の調理を担当されている安永さんは、昭和40年から現在に至るまで48年間、お一人で児童のために働き続けてこられたのだそうです。しかも、法事など以外はほとんど休まれることもなかったそうです。

年表を見ますと、昭和43年に新調理室が落成するまでは、わずか6畳一間ほどの給食室で調理作業をしておられたわけですね。
その間、校歌が制定され2回の新校舎落成などがあっており、昭和44年には学校給食研究発表会を経て、46年には「学校給食有料校」として県教委から表彰をされています。・・・こう書いてしまえば、ひと言ですが、これは大変なことですね。良いこともそうでないことも、約半世紀間、給食を通して津波見小学校の子どもたちと職員さん達を見守って育ててきた、ということなのですから。

この日も忙しく働かれていましたので、詳しくお話はうかがえませんでしたが、やはり来年3月の閉校を考えると寂しい思いがあるのだそうです。

向かって右側の建物が給食室です。

にこにことして、不平も言われず、ただ黙々と作業をされていた安永さんの姿を胸に焼き付けて、この場を後にしました。3月まで頑張ってください!

校門を出たすぐのところにある商店も「安永商店」でした。食料品や雑貨ばかりでなく、学用品や文具を買いに行った子どもたちも多くあったことでしょう・・・。

毎回書いていることではありますが、その地域において、「子どもの声・息吹・足音」などといったものは、「地域の希望・未来」そのものでしょう。その楽天性と純粋さは、陰鬱な暗い陰をも吹き飛ばしてくれます。
(個人情報保護の為、制作児童の苗字は加工処理して消してあります)

130年前から学校を拓いてきた地域の人たちにとっても、おそらくそういう思いが胸の中にあったことでしょう。
古い門柱や石碑にもそのことが感じられます。

この津波見の地には鉄道もなく、郵便局や交番などもありません。この地にとって「学校」とは特別な意味を持ち、最重要とも言える存在であったことでしょう。
津波見小学校が無くなることは、無念としか言いようがありません。

集落を見下ろす墓地には代々のお墓があります。安次や先人たちは、どういった思いで見ているのでしょうか・・・。

(元記事作成:2013年11月)


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