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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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2021年11月の記事一覧

北松浦郡田平町の中心駅でありながら、隣の平戸市(島)の名前が付いていた「国鉄平戸口駅」(現・松浦鉄道たびら平戸口駅)

松浦鉄道・たびら平戸口駅。 昭和10年、北松浦郡南田平村時代に鉄道省(後の国鉄)により設置された駅ですが、記事タイトルのごとく隣りの島である平戸島への玄関口という意味の「平戸口」という名称が付けられた時代が長く続いています。 写真は昭和10年8月6日、平戸口駅開業の日のものです。 造りは当時から変わっていないことがわかります。 写真では多くの人がプラット・フォームに立っているのが見えますが、入ってくる一番列車を待っているのでしょうか。 当時は平戸がこの一帯の中心であったとは

松浦鉄道の「日本一」を体感しよう!

松浦鉄道(MR)の日本一、それは『 駅間距離最短日本一 』なのです! ・・・同鉄道の「佐世保中央駅」と「中佐世保駅」(ともに佐世保市島瀬町)はわずか200mしか離れておらず、これは日本の鉄道において文句なしの最短です。 地元では結構有名かもしれませんが、実際この「短さ」を体感したヒトは案外少ないのではないでしょうか・・・!? では、行ってみましよう。三ヶ町アーケードと合わせて960mと一直線のアーケードとしては、これまた日本一長い四ヶ町アーケードのこの小さな路地が「佐世

約束の地・・・上五島・福見教会のマリア

五島・福見教会のマリア像。 ひとつひとつ表情が違うマリア像ですが、ここ福見教会のマリア像は、ひときわ美しい顔だと思いました。青空をバックに・・・というのが映えることもありますが、このなんとも穏やかな美しさは、ちょっと息を飲む?ものがありました。 これまで訪れた数々の教会の中でもっとも印象的なマリア像でした。 ふくよかな「手」も美しいです。 訪れた際、教会の傍らに、ひとりのおじいさんがおられ、いろいろと話を聞かせてくれました。かつてはこの教会のすぐ横に児童の養育院があり、修

かえって日本人への親近感を高めることとなった雲仙地獄でのキリシタン迫害

島原半島の中央にそびえる雲仙岳(正しくは普賢岳、国見岳など三峰五岳の雲仙連峰或いは山体)。 島原半島のシンボルであり、かつ国立公園第一号ともなった有数の観光地であるのは、有名なところです。 明治・昭和期の浮世絵版画師、川瀬 巴水が描いた雲仙、「天草より見たる 雲仙」は、静かなこの地の風情をよく表しています。 かつてはキリシタンの郷として栄えた後、島原の乱(或いは島原・天草の乱)により一時は荒廃したこの地方が、2015年の今、再び世界遺産を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連

子ども 日本風土記〈長崎〉より② 「はくさい売り」

『 わたしは、また、かしのうら(地名)に、はくさい売りに行きました。 持って行ったのは、十三ば、百三十円です。 うちを出る時、 「文子、うれじ(売れなくて)なくなよ。そして、うれてしもうたら、百十円のしょうゆば買うて来い。そしてさ、あとん(後の)二十円がと おかしば買うてこいよ」 と いいつけられました。 わたしは、「ようし、売れてしまえ」と、思いながら行きました。 かしのうらに着いて、 「ごめんください。はくさいは いらんとかな」 といって、家の中にはいって行ったら、

被爆時、救援の最前線となった 長崎本線・道ノ尾駅

長崎に原子爆弾が投下された後、県内や他県からも救護隊が派遣されたのですが、浦上一帯が壊滅した為、この小さな駅が負傷者を移送する最前線の駅となりました。 この道ノ尾駅は、爆心地から約3.5kmの距離にあり、被爆時は、壁が落ちたり、窓ガラスが飛散したのですが、幸いにも駅舎に大きな被害がなかった為、駅前広場に臨時の救護所が置かれ、救援列車の基点となりました。 当然、この救護所には、うわさを聞いて辿り着いた半死半生の負傷者であふれました。 この駅舎は被爆遺構であり、「被爆」という

私が愛用してやまない、平坂製薬(長崎市金屋町)の「 ヘデクパウダー 」

『 ヘデクパウダー 』 (平坂製薬:長崎市金屋町) 私が愛用してやまない?頭痛薬で、長崎の誇れる物のひとつだと思っています。・・・・というか、かつて私は大変な「頭痛持ち」で、いつも頭痛薬が離せななかったのですが、その時分いろいろ試した中で、一番自分に合っていたのが、このヘデクパウダーでした。 特徴としては、他の頭痛薬にはあまり入っていないアスピリンが配合されていることです。 関東や関西の友人にも「長崎みやげ?」として渡そうか・・・と思ったこともあったのですが、まぁ「薬」

本格的な本土空襲は長崎を含む九州北西部の工業地帯・軍事基地より始まった

のどかな長崎港と街の風景。その中にぽつんと見える「長崎市のランドマークで、また貴重な歴史の証言者(シンボル)」・・・・。 何だかわかりますでしょうか? それは三菱長崎造船所の150トン・ハンマーヘッド型クレーン(起重機)です。 スコットランド、マザーウェル・ブリッジ社製のこのクレーンは明治42年に設置され、明治・大正・昭和・平成・令和と5つの時代をまたぎ、今も尚現役として働いています。 そして何より度重なる空襲と原爆とをくぐりぬけて、ここに立ち続けています。 長崎では原爆

ド・ロ神父が眠るキリシタン墓地が語りかけてくること

パリ外国宣教会の神父として、外海(そとめ)地方を拠点に活動し、生涯故郷フランスに帰ることなく、ここ出津(しつ)の地に眠っています。 旅行者はほとんど出津教会やド・ロ神父記念館を見学して、墓地には来ないと思いますので、ド・ロ神父が眠るカトリック墓地を紹介したいと思います。 「カトリック墓地が語りかけてくる言葉」をぜひ聞いてみて欲しいと思います。 墓地は、外海中学校(旧出津小学校跡地)の向かいの出津川を挟んだ山あいにあります。 墓地の前にはツーリスト用の駐車場があります。