マガジンのカバー画像

炭鉱

55
昭和30年代まで長崎県内に無数にあり、地域の発展を支えた炭鉱のこと
運営しているクリエイター

#人生

炭鉱町に住んだ人々~隣人との付き合い(2)

ある土地で人が生活をする場合、非常に苦慮する要因のひとつが、その土地の出身者か否か・・という「排他性」でしょう。 「よそ者」という呼称はポピュラーな言葉ですし、我が県においても、「居つき」「旅のもの」・・・など、他地区からの転入者を差別する言葉は、身近な場所にすら転がっているのが現実なのです。 また、そのほんの狭い地区の中でも、海に近い所で生まれたか、山に近いか・・などで細かく差別し合い、争い合っているという場所もめずらしくないでしょう。 日本の僻地を巡って歩いた民俗学

「じこ のこと」 ~ 子どもの目に映った、ヤマ(炭鉱)の事故

昭和30年代に福岡県稲築町で撮影された一枚の写真。詳細は不明ですが、おそらく三井山野炭鉱の入坑口付近で撮られたものだと思います。 入坑口には、おそらくどこの炭鉱もそうですが、保安を呼びかける言葉がイラストなどと共に掲げてあります。 全くの推測にすぎませんが、山野鉱の近くにあった小中学校で書かれたものではないでしょうか。 学年別に並べて貼ってあるとすると、 小学校1年生 「 いし 」、石炭のことを指します。「 ほあん 」、そのまま保安ですね。 小学校2年生  「 せきた

かつての炭鉱町にあった小学校跡地にポツンと残る、或る人の一生ものの記憶

『 私は、神林で、四年生まで、いました。それから、伊王島にいきました。 神林の時の、思い出は、記憶がありません。残念です。 私の祖父は、鍛冶屋でした。うたがうらでした。 神林の学校は、楽しかったことだけ、記憶にあります。 本当に記憶がないんですよ。 先生が優しかったです。それだけ、おぼえています。 神林の一年生の担任は、ふじまつ先生かもしれない。女の先生でした。 クラスの子が、床に何かを、こぼした時に、私が床をふいてあげたら、先生が私に、優しいね、といってくれたのを、今も覚え