臭いものに蓋をしても臭い
自分の年齢を21だと思っていた、実は22だった。些細な差ではあるが、自分がこんなに歳に無頓着だったのは驚きである。
生まれてから22年間、人並みには勉強してきた方だと思うし、人並みには本を読んだ。だから、いろんな言葉を知って、言葉のいろんな使い方を知った。(まだまだ知らない言葉はごまんとあるが…)
ただ、きちんと言葉を使えているかは怪しいところだ。何も語彙の意味が間違っていると言うわけではなくて、言い訳のために自分の感情に嘘をついてしまっている時があるんじゃないかと。
本屋で、環境問題についての本や政治の本など多くの本が並んでいて、僕は読まなきゃいけないなぁと思うことはある。ただ、手に取るのは稀だ。その時、「僕一人が考えを変えても変わらないかもなあ」とか、「いろんな主義主張があるから一冊だけ読むのもなあ」とか頭の中で本を手に取らない言い訳を並べている。
しかし、実際はめんどくさいだけだ。
世界の問題はもちろん大事だし、南極の熊は生きていてほしい。ただ、考えるのは面倒臭いと思うのも正直なところだ。
臭いものに蓋をしても、臭いものは無くならない。だから、少しでも問題に目を向ける必要がある、僕はそう思う。
だから新聞には極力目を通して気になった問題などについては本を読むようにしている。しかし、それも自分に余裕がある時だけだ、忙しい時は、今晩の飯と寝ること以外考えていない。
人は衣食足りて礼節を知るという、明日の生活もわからない人が5年後の未来の心配など出来ないように、余裕が無いと社会や世界のことに想いを馳せることは難しい。しかし、余裕が無いから難しいことなんて知らないよ、と開き直りたくは無い。まあ、余裕を持つことが一番だろう…。
臭いものは臭い、だけれど蓋をせずに対峙するのだ、あきらめずに
そういえば最近めっきり新聞を読まなくなった。というのも、新聞を読むのが基本銭湯か喫茶店だった為だ。どこも出入りできそうに無いので残念だ。土曜くらいはコンビニで新聞を買おうかな。
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