罪を認めたくない

こんにちは、角笛です。今日は証です。

最近、自分自身に失望することが多くありました。自分のミスや、悪い思いを抱いて人を傷つけたり、不当に扱ったり、心にも思っていないことを言ってしまったり、大きなことを言ってしまったり。このみことばを思い出しました。

"彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、
人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、
浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。"
ローマ人への手紙 1章29~31節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私は本当に罪深いなと、思わされる日々です。今はそう思います。神様が私をなだめ、また心優しく教えてくださったからです。実はというと、自分の非を認めたくなくて、正当化をずっとしていました。あることで、明らかに自分が悪いことをしてしまったのですが、それを認めたくなくて、ああだったから、こうだったから、と理屈をこねくり回して、なんとか悪いものではないと言い聞かせてきました。

それどころか、責められることもあり、逆ギレさえもしてしまいました。なんなら、責めてくるあなたにこそ悪いところがあるんじゃない?そうやって、論点をずらすこともしました。

私は正しい。私がやってきたことは間違ってない。私が正しいことを認めない人たちこそ間違ってる。そもそも、あの人がちが悪いんだ。そういう思いが私の心の中を支配していました。しかし、私はずっといらだっており、平安が全くありませんでした。

そんな中で、私はイエス様の十字架を仰いで、神様の前に出て祈ることにしました。もう、自分の力ではどうしよもなく、弱り果ててしまったからです。

祈りの中で示されました。イエス様の十字架が。イエス様は十字架上で、両手を広げ、頭からも手からも足からも血を滴らせていました。呼吸を荒げながらも、ご自身を殺そうとしている私たち罪びとのために祈っていたのです。イエス様は、黙って十字架にかかられていました。

でも、よくよく考えてみると、イエス様は罪があったから罰せられたのだろうか?なんで死ぬ必要があったんだろうか?いや、むしろ、十字架につけた私たちにこそ罪があったのではないだろうか。本当は、私たち、いや、私こそがこの十字架にかかる必要があったのではないだろうか。そう思いました。

では、なぜ、イエス様は黙って十字架にかかられたのか。それは、私たちの罪を身代わりに背負ってくださるため。神の怒りのなだめの生贄としてご自身をささげられた。それは私たちの罪が赦され、神と和解をするため。

私の怒りがキリストを殺した。私の妬みがキリストを殺した。私の中にある、罪を正当化しようとする思いがキリストを殺した。あの釘を打ったのは私自身だ。そうだと気付きました。

そうこう祈っている中で、自分の心にある正直な思いが湧いてきました。「私は意地悪な思いを持っている。それは認めざるを得ない事実。私の心には間違いなく、それがある。」

私は、自分が本当にみじめな人間だと思いました。心では正しいことをしたいと願っていながら、なんなら正しいことをしていると信じながら、実際は人を傷つけ、悲しませ、嘘をついたり、余計なことを言ったりして、悪を行なっていました。そんな、矛盾する自分に悲しくなってしまいました。

そこで、再び祈りの中で十字架を見上げました。十字架にかかられているイエス様は、イエス様に敵対している私に対して、怒る思いではなく、赦しと優しさに満ちた瞳で、私を見つめているようでした。そう、私は赦されていたのです。

私は、そわそわする思いから、気づいたら解放されていました。私は赦された者。そのことをいつの間にか、受け入れていたのです。

私はイエス様の赦しにすがることができました。

十字架を思い出したことで、私は「罪を隠す必要がないんだ」と知ることができました。罪を告白し、赦してもらえる場所がある。それがカルバリの十字架。

十字架は、私のすべての重荷である罪、すべての人との関係を破壊する罪、敵対者を作る罪から完全に解放する。そこには平安があり、和解があり、神の愛がある。そして、私の罪をきよめ、正しい行いができるようになっていく。

十字架は、握りしめて放せない罪、ビクビクと罪を隠す私の固くなった心を溶かし、罪を手放せるようにしてくださる。強い自分でなくてはいけない、人に嘘をついてでも正しさを主張しなくてはいけない、恥ずかしい自分を隠さなくてはいけないという、本当は弱く愚かで罪深い姿が暴露されるのではないかと、いつも怯えている自分の心を溶かしてくれる。

そう気付きました。

私はこれからもやはり罪を犯してしまうことがあると思います。しかし、その度に正直に神様に罪を告白していきたいと思いました。

"もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。"
ヨハネの手紙 第一 1章9節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


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