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「どうせ」の行動様式

人間にとって一番やっかいなのは、「どうせ」という感覚ではないだろうか。

どうせ、やっても上手くいかない。
どうせ、相手に断られるだろう。
どうせ、合格なんかしない。
どうせ、惨めな思いをするだろう。

「どうせ」の行動様式に慣れると、ほぼほぼ勝ち筋のあることにしか反応できなくなる。ギャンブルしろとはいわないけれど、たまに無茶な勝負に挑んだって良いはずで。確実にヒットを打てる球だけ待ち、結果として打率が高くても、規定打席に達しなければ打棒10傑には入らない。多少の失敗に目を瞑っても、がむしゃらにヒットを積み上げる人生の方が魅力的だろう。

社会人1年目のとき、とあるビジネス交流会に誘われた。六本木のギラギラした会場で、ベンチャー企業所属のビジネスパーソンたちがスーツを纏い、なにやら交流を図る催しだ。お世話になっている方が主催していたので参加してみたが、その場がまったく自分には合わず、1時間も経たずにその場を去った。

それ以来、交流会と名のつくイベントにはことごとく参加を避けてきた。100名いるパーティなんてもってのほか。個別の知り合いがいても、喋り込むことはできない。広く浅く、つながりをつくるのが交流会なのだ。

およそ10年前、友人が「渋谷で誕生日パーティーをやるから来てくれないか?」と誘ってくれた。Facebookをみると、のべ200名くらいが参加しそうな勢いだ。先約があり断ったのだが、正直ホッとした。そんなパーティーに参加するわけにはいかない。

でも、とある事情で先約がバラシになった。「行けるじゃん」ということになったのだが、迷いに迷った。ベッドで横になり、ウダウダしていたら開始時間をすぎていた。あー、今から行っても迷惑だよな。どうせ、楽しくないし。

行かない理由は山ほどあったけれど、とりあえず行くことにした。

会場はカジュアルな雰囲気ではあったものの、やはり知り合いはおらず、手持ち無沙汰でボーッとしていた。そんな僕にフランス人の男性が話しかけてくれ、女性ふたりの輪に入れてもらえることになった。急な展開に戸惑ったが、とてもフレンドリーで、共通点も多く話が盛り上がる。

どうせ行っても楽しくない。

ではなく、どうせなら楽しく振る舞おうじゃないか。という感じで、あっという間に閉幕のときを迎えた。Facebookでつながり、「また会いましょう」と告げる。ああ、参加して良かったと思えた。

後日、その女性のひとりと会い、1年ちょっとの交際を経て、婚約に至った。

「どうせ」の呪縛にとらわれていたら、全く違う人生を歩んでいたに違いない。

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