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木村花さん死去から1年が経った。(『影響力の武器』から考えるシステムの欠陥)

考えてみれば、あの事故から一度も「テラスハウス」を観ていない。

事故と書いたけれど、事件と書くのが適切かもしれない。分からない。(とりあえず便宜上「事故」と書きます)

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1年経って、いち視聴者だった僕が何を書いたって仕方がないのだろうけれど。僕を含む全ての人がちょっとずつ悪者だったんじゃないかと心が重くて。とにかく、とてもショックだった。

誰が悪かったのだろう。

問いの立て方が適切でないと思いながら、僕自身が前を向くために整理を試みる。

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なお、あの事故の後で、フジテレビの責任を問う声が多く挙がっていた。

審議の結果、BPOは「放送倫理上の問題があった」が「制作者側の指示によって意思決定の自由を奪うような人権の侵害や、過剰な編集や演出による放送倫理上の問題については「あるとは言えない」」と認定している。

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システムとしての欠陥

結論から言うと、僕は、ここが一番の欠陥だったと思っている。

Netflix、フジテレビ、制作会社、スポンサー、視聴者、当事者……。関係者の数が多すぎて、誰が責任を負うべきなのか分かりづらい。現代の縮図のような感じ。ビッグプロジェクトになればなるほど「分かりづらさ」が増しているように感じることさえある。

放送当時、それぞれが「見えない権威」によって支配されているように感じていた。強い言葉が飛び交い、いち視聴者として息苦しさを感じながらも、加害性を多分に含めたアクセルに歯止めが効かない。

インセンティブと加害性は割に合わないはずなのに、なぜ彼らは(僕らは)アクセルを押し続けてしまったのだろうか。

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『影響力の武器』で描かれた、「普通の人」の残虐性

ロバート・B・チャルディーニさんの名著『影響力の武器〜なぜ、人は動かされるのか〜』の第6章は「権威」について記されている。

とある実験に集められた2人の被験者が、くじ引きによって「生徒」と「教師」に分けられる。生徒役は記憶力のテストに挑戦、間違えると教師により強い電気ショックが与えられるという不合理な実験だ。

テストが進むにつれ、あなたは「教師」がどのような手続きをとっているのかをすぐに理解します。つまり、「教師」は問題を出し、あなたがインターホンで答えるのを待ちます。間違えた答えを言うと、あなたが受けることになる電気ショックの強さを知らせた後、電気ショックを与えるためのレバーを引くのです。あなたにとって困ったことは、間違うたびにショックの電圧レベルが十五ボルトずつ上げられていくことです。(中略)
あなたは実験を中止して自分を部屋から出してくれるよう、「教師」に向かって叫びます。しかし、彼はさらに次の問題を出すだけです。そして、あなたが怒りを込めて答えた解答も間違っているので、切り裂くような痛みのあるショックをあなたに与えます。もはやこんな状態を我慢していることはできません。ショックは非常に強く、のたうち回って金切り声を上げてしまうほどです。(中略)実験を続ける理由はなにもないのですが、「教師」は容赦なく続けます。テスト問題を読み上げ、忌まわしい電気ショックの電圧レベルを伝え(今は四百ボルト以上になっています)、レバーを引きます。なんという人なのだろう?あなたは混乱した頭の中で疑問に思います。なぜ、私を助けてくれないのだろう?なぜ、彼はやめようとしないのだろう?
(ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器〜なぜ、人は動かされるのか〜』P250〜252より引用、太字は私)

恐ろしい実験だが、実際には電気ショックは与えられていない。「生徒」役は苦しむ演技をしているだけだったからだ。

実験の真の目的は「何の罪もない他者に対して、苦痛を与えられるように指示された場合、普通の人はどの程度の苦痛まで与えようとするのだろうか?」を確かめることだった。

なんと、「教師」役を務めた約2/3の実験参加者が、「生徒」からの懇願を聞き入れず、研究者が実験の終了を告げるまで電気ショックを与え続けたという。(しかも40人の被験者のほとんどが、「教師」としての自分の仕事を途中でやめようとしなかった)

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権威に対する服従、義務感の罪深さ

研究責任者のスタンレー・ミルグラム教授は以下のように語ったそうだ。

彼が言うには、それは権威に対する深く根ざした義務感と関係があります。あの実験場面で被験者(「教師」)が実験をやめようかどうしようかと、情動的で身体的な葛藤状態を引き起こしていたにもかかわらず、ボス──実験服を身につけた研究者──は被験者に自らの義務を遂行するように促し、また必要とあらばそうするように命令しました。ミルグラムによれば、このボスの意向に被験者が反抗できなかったところに真の問題があるのです。
(ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器〜なぜ、人は動かされるのか〜』P254より引用、太字は私)

「テラスハウス」において、どんなパワーバランスが成立していたのかは、もはや想像しかできない。

推測で語るのは避けたいが、おそらくどの関係者も、それぞれが「自らの仕事を果たす」ことに忠実だったのではないだろうか

視聴率、再生回数、番組の評判、SNSでトレンドに挙がっているかどうか、フォロワー数、(スポンサー企業の)商品売上……。

これらの指標の多くは、番組の継続や盛り上がりに直結している。共通の利益に反するような行動、つまり「自分が裏切り者になるかもしれない」行動は取れなかったのだ。

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もっとシンプルな仕事にならないのか

繰り返しになるが、実際のパワーバランスは分からないし、主従関係も定かではない。だけど往々にして「権威に関する服従」という構造は宿命的に生じるものであって、「テラスハウス」も例外ではなかったと言える。

パワーバランスが完全に均衡していて、主従関係が発生しない関係を完璧に作ることは難しいだろう。

システムの欠陥は、なるべくしてシステムの欠陥になっており、「テレビ」という強力な舞台装置で、構造そのものを抜本的に変えるのはほぼ不可能だと言える。

ちなみに仕組みの上では、先月に改正プロバイダ責任制限法が成立し、インターネットで誹謗中傷を行った人の特定をしやすくするための法整備がなされた。

実際、この手の話は罰則強化のみが議論されることが多い。

しかし、それだけではSNSにおける誹謗中傷の流れを食い止めることはできない。なぜなら、多くの人はほとんど無自覚に、誹謗中傷のメッセージを発信しているからだ。

「一人ひとりがモラルある行動を」という安直なスローガンのみを提唱することは問題解決になり得ない。

そうではあるのだけれど、あるべきモラルの在り方を見直すことは無駄にはならない。発信者だけでなく、コンテンツに関わる全ての人たちが、今一度この事故を振り返ってもらえたら。健全なエンターテインメントの姿を求めたいし、当事者たちの自浄効果も願っている。

僕自身も、これから何かできることがないか、歩みを止めずに考えていきたい。

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補足

上記結論はあくまで僕自身のものだが、当然のことながら、この事故は法的手続きをもって処断されるべきだと考えています。

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最後に木村花さんの命日に。改めて、ご冥福をお祈りします。どうぞ安らかに。

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