小説にせよ映画にせよ、「面白い」を基準として作品に触れる/触れないが決定されるのはどうなのか。

以下は、「面白い」に関する個人的なメモ。備忘録。たぶんこの感覚は、1年後には、まるっきり変わっていると思う。

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僕は、食べログの評価を全く気にしない人間だ。

もともと食に対する執着が薄いので、会社の飲み会を決めるときも「まあ、会社から近いし、ここで良いっかな」くらいの感覚でお店の選定を行なってきた。二度ほど顰蹙を買ったことはあったけれど、(自覚症状としては)可もなく不可もなくという形でやり過ごしてきたと思う。

「食」に関する、良し悪しの指標は明確だ。

最近でこそSDGsの観点から、環境負荷や多様性に配慮したレストランも増えてきたが、基本的には「美味い、または美味くない」で評価がくだされる。

一方で、小説や映画など、クリエイティブな創作物への評価基準は様々だ。「面白い、または面白くない」といった個人の主観だけで測れない何かが、確実にある。作品に込められた意味や意図、一様に測れないからこそ、アカデミー賞やゴールデングローブ賞、芥川賞、ノーベル文学賞などの権威がどーんと影響力を持ったりする。でも権威だけが評価を決めるなんてことはなくて、審美眼を持つ人たちによって、良いクリエイティブは脈々と語り継がれてきたように思う。それもまた、文化資産のひとつだといえる。

だけど昨今、そんな文化資産が少しずつ薄れてきたように思う。

クリエイティブで評価されるのは、すごいかどうか。常人には作れないような映像美だったり、予算をめちゃくちゃかけた大作だったり。いやそれも評価のひとつではあるのだけど、「美味い、または美味くない」のように、一面的な観点のみで語られるようになってきたのではないだろうか。

そもそもSNSなどで、「この作品はめちゃ面白かった。みんなも観に行った方が良い」と、個人の主観だけで作品に触れる/触れないが決定されるような状態は、健全とはいえないだろう。

「面白い」という言葉の裏には、もっと語られるべき何かがあるはずで。そこの言語化にこそ文化資産につながる何かの萌芽があるように思うのだけど、そこまで行き着かない。「てめえの面白い / 面白くない、なんてどうでもいいんだよ」なんて暴言は吐かないものの、「てめえ」の面白さの総量が多ければ多いほど作品が興行的に成功を収めているように感じてしまうのだ。推し活やファンベースマーケティングの負の側面だ。

推し活だって、ファンベースマーケティングだって、立派なアクティビティだ。むしろこれらの隆盛が、現代の文化資産に寄与しているのは間違いなくて。

でも、僕らは言葉を扱える人間だ。

もっと、クリエイティブなものへの言語化レベルを進化できるんじゃないか。ただ面白い、だけじゃなくて、言葉を尽くして「面白さ」の正体へとアクセスしていけるんじゃないか。

そんなことを、ずっとモヤモヤと考え続けている。

#面白い

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