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(続)百田尚樹『日本国紀』が書けなかった日本近代史の真実とは?

はじめに

 前回の記事は意外と好評をいただいたようです。1人でも多くの人の読んでいただきたいと思って無料公開記事にしているのですが、サポートとして買い上げいただいた方も何人もいらっしゃいました。厚く御礼申し上げます。

 今回は、前回の記事で書き足りなかったことを多少補足したいと思います。補足ですので前回よりは簡潔になりますが、ご承知おき下さい。

1 内閣制度のことが書いてありませんが・・・?

 『日本国紀』の明治時代の部分では、1889年に大日本帝国憲法が発布され翌年に帝国議会が始まったことについては当然、説明しています。
 ところが、これより前に行われた、もう一つの重要な政治体制改革については、まったく触れていません。歴史の本としてはあり得ないミスです。
 それは何かというと、内閣制度の創設です(1885年)。
 日本の初代の内閣総理大臣は、伊藤博文です。これは結構知られていることですが、『日本国紀』では触れていません。
 日本通史を銘打った本で、しかも近現代に力を入れているはずなのに、内閣制度の創設にも、初代内閣総理大臣にも触れないというのは、さすがに問題ではないでしょうか。

(写真は伊藤博文)
さて、以下は豆知識です。この時代の内閣制度にはある弱点がありました。それは、内閣総理大臣も、その他の国務大臣も、すべて天皇が任命していたということです。
  これがなぜ問題かというと、総理が他の大臣と対立した場合に、その大臣を罷免することができないということを意味します。天皇が任命した大臣を、総理が勝手に罷免できるわけがないという理屈になるからです。

 1890年に帝国憲法が発布された後も、この状況は変わりませんでした。帝国憲法には「内閣総理大臣」という言葉はなく、「国務大臣」という言い方しかされていません。総理も他の大臣も、天皇が任命し、天皇を補弼(補佐)するという位置づけでした。

 この体制が政治の混乱をしばしば引き起こすことになりました。総理と他の大臣の意見が合わない場合に、総理が大臣を自由に交代させることができないので、その大臣が自発的に辞めてくれない限りは内閣の意思を統一できず、最悪、内閣総辞職するしかなくなります。

  現在の日本国憲法では、内閣総理大臣が各国務大臣を任命し、また罷免もできることとなっていて、上記のような問題は回避されています。百田尚樹さんがボロクソにけなした日本国憲法の方が、ちゃんと対応できているというわけです。

 おそらく日本国憲法の長所に触れたくないので、『日本国紀』では、明治の内閣制度やその問題点についてわざと無視することにしたのかも知れません。

2 小作農の生活が苦しかったことは無視ですか?

 太平洋戦争後のGHQによる様々な政治経済の改革については、『日本国紀』は大体批判的です。GHQが日本をダメにしたといわんばかりで、一番力を入れているのが例の「WGIP」とかいうものですが、それ以外の部分も概ね否定的です。

 農地改革も戦後の重要な改革なのですが、『日本国紀』ではそれがまるで悪いことでもあったかのような書き方で、おまけに戦前の地主は小作農を搾取していなかったとも述べています。

 実際は、戦前の小作制度はかなり農民が苦しい生活を強いられるものでした。
 ここで改めて説明すると、小作制度とは、地主から農民が土地を貸してもらって、自己責任で経営し、収穫の一定割合を地代として地主に上納するというものです。
 現代の農家はほとんどが自分で土地を所有する自作農ですが、戦前は、時期にもよりますが、例えば1900年頃は小作農の土地が全体の45%程度を占めていたとされています。

 小作農が地主に上納する地代は、概ね収穫の50~60%で、相当重い負担でした。但し1920年代になると農民が組織的に地主と交渉して地代を引き下げさせる動きも出るようになり、さらに時代が進むと、戦争のための食糧生産の必要もあって政府も小作農保護政策に取り組んで、終戦時点では、地代は収穫の30%程度になっていたようです。

 ただいずれにしても収穫の多くの部分を地主に取られるというのでは、小作農の生活はやはり不安定です。しかも借りた土地ですから、返さなければならない時が来るかも知れません。そういうわけで小作制度の改革は、戦前から重要な政策的課題として認識されていました。
 戦前の世界恐慌の時の農村が悲惨で娘を身売りさせたとかという類の話も、農村が現在とはまったく違う構造だったということを抜きにしては理解できません。

 大戦が終わるとGHQもこの農地改革に徹底して取り組むことにしました。一つは、農村の地主と小作農の関係は封建的で古い意識に染まっているから、民主主義社会にふさわしくないと考えたこともありますが、さらに、地主が小作農から多くの収穫を取ってしまう体制では、小作農の生活が安定せず、農村が社会主義革命になびいてしまう恐れがあるとも考えたのです。(実際に戦後、世界の発展途上国では、大地主が支配する農村で、共産ゲリラや社会主義運動が支持される動きも多々見られました。)

(写真は国立公文書館より)
こうして多くの地主は土地を安い値段で買い上げられ、その土地は小作農に与えられました。土地を与えられた農民たちは、保守政党の強い支持基盤んになったのです。

 いわば農地改革は、共産主義化を防ぎ、日本の政治を安定化させた恩人ともいうべきものなのですが、『日本国紀』を読むと、農地改革が迷惑な出来事ででもあったような書き方であり、そういう重要な点がまったくわからないので、注意した方が良いでしょう。

3 そもそも、なぜ満州に日本人が大勢いたんです?

 『日本国紀』では、終戦時に満州(現在の中国東北部)で大勢の日本人がソ連軍の侵攻により悲惨な目に合った描写がありますが、かなり簡潔にすまされています。
 しかしそれ以前の根本的な問題として、そもそもどうして満州にそんなに大勢の日本人が居住していたのでしょうか。その理由の記述が『日本国紀』には一切ありません。
 『日本国紀』を読んでいると、いつの間にか理由がわからないままに、満州に大勢の日本人が住むようになっていて、それが終戦時にソ連の侵攻や飢餓などで大勢命を落としたという風にしか読めないのですが、そこまで多数の日本人が居住するようになった経緯がまったく書いていないのです。

 これは単に、貿易や開発の業務のために日本人が進出するようになったとかいう個別の問題ではありません。はっきり言ってしまえば、戦前、国の政策として、大量の日本人を農村から満州に送り込んでいたのです。

 少子高齢化に悩んで外国人労働者を大勢受け入れている今の日本からは想像しがたいことですが、昭和戦前は、1929年以降の世界恐慌による深刻な不景気の中で、農村を中心に貧困問題が深刻となり、人口が多すぎるという声さえあって、日本は外国に移民を出そうとしていました。(小作農の生活が苦しかったことは、先ほど説明したばかりです。)

 ブラジルなど中南米への移民も政府が積極的に支援していましたが、中南米が移民の受入を制限するようになると、新たな移民先として注目されたのが満州でした。
 日露戦争以降、日本が満州に利権を確立すると、日本人が移住するようになりますが、特に1932年に満州国が建設された後は、政策的に大規模な移民を送り出すことが決定されました。満州と内モンゴル地区に移住する開拓団が編成されて、これを「満蒙開拓団」と呼んでいます。
 つまり単に移民するだけでなく、辺境の土地を開拓させることにしていたのでした。

(満州への移民を募集するポスター)
なんと30万人にも及ぶ膨大な開拓民が日本から満州に送り出されて、土地を与えられて定住し、新たな社会の建設を夢見ることになったのでが、土地などをめぐって現地の住民などとのトラブルも絶えませんでした。現地住民から見れば侵入者や侵略者ということになるわけですから。

 このような中で、1945年8月9日、日本に宣戦布告したソ連の軍が侵攻してきたのですから、数十万の日本の民間人がどのように悲惨な状況になったか、想像に難くないでしょう。

 『日本国紀』では、その最後の終戦前後の悲劇について簡単に触れているだけで、そもそもなぜそんな大量の日本人が満州に行くようになったのかが全く説明されていません。要するに、国の政策として、農村から大量の移民を満州に送り込んでいたということなのです。(これを「棄民」と呼ぶ人もいます。)

 百田尚樹さんとしては、戦前の大日本帝国政府が、何十万もの日本人を移民として政策的に満州に送り出して大勢命を落とさせるに至ったことなどは、輝かしい歴史の汚点ですから、触れたくないのでしょう。

 この終戦期の混乱状態の中で、必死で撤退しようとする日本人が、赤ん坊や幼児を連れていくことができず、せめて生き残るようにと現地民に委ねて育ててもらった例が多数あり、これがいわゆる「中国残留孤児」なのですが、この中国残留孤児についても、『日本国紀』は知らん顔です。これは恐らく、「中国の人に世話になった」みたいな話をしたくないからでしょう。

4 日本国憲法って、1条と9条しか無いんですか?

 『日本国紀』の、戦争後に新憲法が制定されたことを説明する部分は、当然ながら日本国憲法に対する非難と否定の言葉に満ちています。
 それは百田さんの思想的立場だから別にいいとして、この日本国憲法制定に関する章を見ても、1条(天皇)と9条(戦争放棄)のことしか書いていません。他の条文はどうでもいいのでしょうか?あまりに手抜きではないでしょうか?

 例えば大日本帝国憲法では、万世一系の天皇が日本を統治する主権者とされていたのに対して、日本国憲法では、国民主権の原理が定められています。帝国憲法では、国民は「臣民=天皇の家来」とされていたのが、日本国憲法では主権者となったわけです。
 また帝国憲法では、例えば「法律の範囲内において」表現の自由が認められていたため、前回説明した治安維持法のような悪法でどのようにでも表現の規制ができたのですが、日本国憲法では、表現の自由について「法律の範囲内」という制約はなくなりました(21条)。これにより、不当な規制を行う法律を定めると、その法律そのものが憲法違反となりうるようになったのです。

 何よりも重要なのは、日本国憲法では13条で、国民が個人として尊重されることを定めたことです(個人の尊厳)。このような個人の尊重の規定は、帝国憲法には存在しませんでした。

 さらに14条(法の下の平等)36条(拷問の禁止)など、帝国憲法に存在しなかった人権保障の規定が数多く生まれました。

 細かいところまで立ち入ることはできませんが、『日本国紀』では、人権保障という面で、帝国憲法よりも日本国憲法の方が遥かに優れているということについては、まったく触れていません。意地でも認めたくないのでしょう。

おわりに

 細かいことを挙げればキリがありませんが、とりあえずここまでとしておきましょう。
 前回と今回を読んでいただいて、感想はどうでしょうか?
 『日本国紀』という本は、私たちが近現代を学ぶときに、本来なら知っておかなければならないはずの重要な事実をたくさん落としているということがおわかりいただけたでしょうか?

 これに対しては「世の中のすべての出来事を本に書くのは不可能なのだから、取捨選択があるのは当たり前」という反論があるかも知れませんが、その取捨選択の仕方に、著者のスタンスや考え方の特色が現れてくるわけです。

 歴史とは、その時代その時代で課題や困難に直面した先人たちの苦闘の積み重ねだと思います。その苦闘をするのは、武将や政治家や軍人や英雄ばかりではありません。名もない民衆が、その与えられた環境の中で、少しでもより良い世の中にするように努力してきた積み重ねでもあります。

 『日本国紀』のスタンスには、その名もない民衆とか、政府と対立した人々の視点が絶望的なほどに欠落しているように思えるのです。

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