013エコロジー-01

佐々木隆治×斎藤幸平 『マルクスとエコロジー』刊行記念対談「マルクスのアクチュアリティ」

いま、なぜエコロジーか

佐々木 先日、岩佐先生と私が編者となり、『マルクスとエコロジー』を堀之内出版から刊行しました。本書の執筆者の一人でもあり、マルクスとエコロジーをテーマとした博士論文を上梓された斎藤さんと本書の内容をテーマに話していこうと思います。
斎藤 よろしくお願いします。本書刊行後の反応を見ていると、マルクスの一般的なイメージは哲学や経済学が中心で、「エコロジー」との結び付きはやや理解されにくいようですね。
佐々木 どうやら、そのようです。けれども、私たちにとってはある意味、必然的に浮上してきたテーマですよね。本書刊行の経緯としては、まずマルクスの物質代謝概念への注目があります。私は最初の単著である『マルクスの物象化論』(社会評論社、二〇一二年)においてマルクスを「素材の思想家」として特徴付けましたが、このとき、アイデアの源泉となったのが「抜粋ノート」と呼ばれるマルクスの勉強ノートです。『マルクスの物象化論』を書く直前にちょうどMarx-Engels-Gesamtausgabe (『マルクス・エンゲルス全集』、以下「MEGA」)の編集作業に携わったのですが、このとき、マルクスが農芸化学などの著作を非常に丹念に書き抜いている抜粋ノートに触れ、マルクスの「素材」そのものにたいする強い関心に驚いたのです。こうして、「素材Stoff」のやりとりを循環的に把握した物質代謝(Stoffwechsel)という概念に注目するようになり、そのなかでマルクスとエコロジーとの関連を強く意識するようになっていきました。
斎藤 それにくわえて、海外の研究からの刺激もありましたね。
佐々木 そうですね、とりわけ英語圏を中心としたマルクス研究でも、ジョン・ベラミー・フォスターやポール・バーケットが別の流れのなかから物質代謝論をベースとしたエコロジー論を展開するようになっており、それらをつなぐようなテーマとして「マルクスのエコロジー」があったのです。私はエコロジーの専門家ではありませんので、本書を刊行するにあたっては、エコロジー論を専門とされる岩佐茂先生に編者に加わっていただきました。
斎藤 そもそも「エコロジー」について、日本と世界の一般的な認識について差を感じます。いま僕がいるカリフォルニアでは数年にわたって歴史的な干ばつが続いているのですが、そもそもカリフォルニアの広大な土地での生活というのはとてつもなく莫大な量の化石燃料を必要とする車社会であるだけでなく、長い時間をかけて貯められた地下水も大量にくみ上げ、生活用水や農業用水を確保しなくてはならない消費社会です。明らかに持続可能なスタイルではないのですが、そこに気候変動の影響が加わって極めて深刻な事態になっているわけです。環境問題が悪化し日常の問題として感じられるようになるなかで、これまでの生活を抜本的に変えなければならないという議論が生まれています。
 そのなかで、現在の対立軸は、リベラルの多数派として資本主義を維持したまま、地球工学のような技術革新によって環境問題を解決して生き延びようという陣営と、そうした生活を根本的に変えないで問題を解決することは不可能であり、資本や商品化の論理を抑制しなければ人類の生存はないという左派陣営で、後者の議論にマルクスの思想の影響力が及んでいます。たとえば、マルクス主義者ではないナオミ・クラインも、フォスターの「物質代謝の亀裂」という概念を採用して気候変動の問題を分析するようになっている。
佐々木 そうですね、資本主義が引き起こした気候変動について扱ったクラインの『This Changes Everything』もそうですし、水資源問題を扱った『ブルー・ゴールド』でも、資本主義によって物質代謝が攪乱されることで水資源が希少になり、水資源が希少になることで商品化され、それによっていっそう物質代謝が攪乱され、水が飲めなくなるという深刻な問題が描かれています。また、そうした認識はたんにジャーナリズムの世界のものではなく、現実のさまざまな運動の反映でもあります。そうした世界のジャーナリズムや運動と比べて日本では気候変動などの環境問題が深刻に理解されていないように感じます。
斎藤 日本で知られている「エコ」思想は、結局、ローマクラブの「成長の限界」の延長としてのネオ・マルサス主義的な資源限界論で、人口が増大すると資源が枯渇して人類が滅ぶか成長が停滞する、という話か、あるいは、グリーンな製品を選ぼうといった消費に関するエコ運動のような個人的合理性に回収されがちです。
 マルクスが重要なのは、環境危機をそうしたネオ・マルサス主義や消費者主義ではなく、社会的生産の次元で把握する必要性を明らかにしてくれるからです。マルクス自身は「人間と自然の物質代謝の攪乱」という概念を用いて資本主義の固有な矛盾の現れとしての環境問題をとらえています。そのうえで、物象化あるいは商品の力の抑制という主張をしていて、現在でも非常に示唆的です。


久留間派の潮流を受け継いで

斎藤 「物質代謝」(Stoffwechsel)とも関連しますが、今回、マルクスのエコロジーに結びついた着眼点はStoffつまり、「素材」、「物質」という概念で、それがフォスターたちの研究とも交差しています。
 この「素材の思想」は佐々木さんが独自に展開したものですが、佐々木さんの『資本論』の読解は、大谷禎之介先生、平子友長先生といったMEGA編集にもかかわっている日本の研究者たちに通じていて、さらに遡ると久留間鮫造先生の研究につながっています。ただ残念なことに、久留間先生の研究はあまり知られていませんね……。
佐々木 久留間先生は、東京帝国大学を卒業後、住友銀行に入行しますが、米騒動の労働者の運動に衝撃を受けて退行し、大原社会問題研究所に入所して研究者として活動された方です。
 久留間先生はまずスミスやリカードに関心を持ち、マルクスがスミスやリカードを研究した、いわゆる『剰余価値学説史』、いまでいえば『一八六一—六三草稿』を読むことからマルクス研究を開始されました。だから、いわゆる「マルクス主義」といわれるような政治的なマルクス解釈にとらわれることなく、マルクスをあくまでもテキストに即して研究したのです。間違いなく、久留間先生は、マルクスの経済学批判の核心を圧倒的に高い水準で明らかにした方だと思います。自分の独自の枠をつくるとか、独自の学派を展開するとか、一見、派手そうなことではなく、マルクスをきちんと理解するという点、とりわけ貨幣論や恐慌論では世界随一の仕事をされた。誤解を恐れずにいえば、価値形態論を本当にわかっているのは、管見のかぎり、久留間先生の仕事を継承する潮流だけです。
斎藤 久留間先生自身がまさにそのようにいっていますね。「マルクスの書いていることを正しく理解しようとして繰り返し読んだ結果、なるほどこれはこういうことだったのかというふうに、自分なりに納得がいくようになった。……もしぼくが、弁証法とか分析的方法とかについての先入見をもってマルクスを読んでいたら、へたをすれば、かえってとんでもないまちがった解釈をすることになったかもしれないと思うのです。」久留間先生の研究の成果が『マルクス経済学レキシコン』(大月書店)として出版され、それがドイツの出版社の目にとまりドイツ語版が出版されたことで、海外でも業績が認められるようになりました。久留間先生の弟子である大谷先生も、『資本論』草稿をアムステルダムで解読して、一文一文エンゲルス版と比較して検討し、その成果が海外の研究者たちに高く評価されている。
 だから、MEGAは九〇年代に入ってソ連が崩壊したときにプロジェクトの存続が危ぶまれたのですが、国際体制で政治的には中立な新プロジェクトとしてMEGAが継続されることが決まったときに、日本のグループとしても参加してくれ、と言われたのは大谷先生だったわけですね。

日本のマルクス理解の問題点

佐々木 マルクスの理論には様々な側面があるのですが、マルクスの物象化論についていえば、近代固有の関係がどういうものであるか、それがどういう帰結をもたらすのか、ということがもっとも核心的な話です。ところが、アカデミックな世界では、そのようなマルクスじしんの問題構成とはまったく無関係に、外からなんらかの哲学や思想をもってきて、その枠からマルクスを再解釈するというような試みがずっとおこなわれてきました。けれども、そのような読み方で読めるほどマルクスはやわな思想、理論ではない。
 廣松渉はその典型ではないでしょうか。たとえば廣松は、実際には地球が公転しているにもかかわらず、あたかも太陽が地球のまわりをまわっているように見えるという現象さえもが「物象化」だといいます。しかし、それを物象化だといってしまうと、近代固有の関係を把握しようとしたマルクスの物象化論とは全く違ったものになってしまいます。彼はフッサールやハイデガーの哲学的問題構成から左派的なことを考えたかった人で、いわばそれにマルクスを利用しているにすぎません。
斎藤 柄谷行人にしてもまず自分の哲学的枠組みがあって、その価値形態論解釈ではカントの超越論的統覚につなげて一般的等価物を読みかえたりしている。自分の哲学的な関心を押し付けるアプローチの一例です。
佐々木 その意味では、アカデミックな世界においては、なんらかの学問的な権威によりかかりながらマルクスを「再解釈」することがおこなわれてきたといえるのではないでしょうか。これは哲学にかぎらず、経済学でもそうです。多くのマルクス経済学者は既存の経済学的問題構成に(意識的であれ、無意識的であれ)寄りかかりながら『資本論』解釈をおこなってきました。しかし、『資本論』がその副題にもあるように「経済学批判」である以上、そのような問題構成に依存しているかぎり、理解することはできません。もちろん、ここでいう「批判」とは、たんに既存の経済学を否定すればよいということではなく、そうした経済学の存立根拠を資本主義的生産様式そのものから明らかにすることでなければなりません。まさにマルクスはこのような試みを『資本論』全篇にわたって遂行しているわけですが、とりわけ第三部の「三位一体定式」では、既存の主流派経済学の世界観が資本主義そのものからどのようにして発生するかが端的に叙述されています。いわばマルクスは、自らが遂行したような経済学批判が資本主義的生産様式の内部で生きる人間たちにとってどれほど困難なものかを明らかにしているともいえるでしょう。
斎藤 そのようなマルクス解釈のゆがみはアカデミアの外でも見られますね。
佐々木 その通りです。マルクスの理論はある意味ではシンプルで首尾一貫しており、理解しにくいものだとは思いませんが、資本主義に対する根底的な批判であるがゆえに、資本主義の内部で生活する人々にとってはどうしても非常に難解なものに映ります。そこで、現実の労働運動や社会運動においてマルクスの主張を広げるには、それを多少デフォルメしてででも通俗化していく必要がありました。そういう役割を最初に担ったのが盟友のエンゲルスだったわけです。彼はまだ高尚だったけれど、それが時代を経るにつれてさらに通俗化されて、かなり平板な階級闘争一元論、経済決定論的な議論に還元されていった。それがいわゆる「マルクス主義」なんですよね。このような「マルクス主義」を前提しても、マルクスはわからなくなります。
斎藤 いわゆる「理論と実践の統一」というのは、その時々の運動を正当化するための理論の単純化・歪曲をもたらしてきたといえます。運動においてマルクス主義が衰退しているいまこそ、原典にあたってマルクスの理論そのものを検討することが可能になりましたし、また必要とされるようになっています。
佐々木 マルクス研究にかぎらず、古典的著作の研究においてはきちんとしたテキストクリティークにもとづいた原典研究をしないと話になりません。その意味では、そもそも廣松や柄谷はあくまで独自の理論や哲学を創造したのであって、マルクス研究とは違うわけですよね。
斎藤 そうですね。たとえば、廣松の『ドイツ・イデオロギー』は基本的にはアドラツキー版の使った解読文をもとにして再編集しただけ。だから裏の紙に書いてある場所とか、コピーにうつっていないところは全部ぬけ落ちているし、執筆順序の検討もできていない。
佐々木 もちろん当時はいろいろな時代的な制約があり、いまほど自由に文献にアクセスできませんでしたし、草稿を直観的に再現しようとした廣松の編集方式は画期的なものであり、あれが全く無意味だというつもりはありません。しかし、いまはいくらでも文献にアクセスできる時代で、実際に渋谷正のような手稿に依拠した緻密な研究が出てきています。にもかかわらず、いまでも廣松の『ド・イデ』などを金科玉条のように祭りたてるのは、廣松じしんの意思にすら反しているように思います。


エコロジーと晩期マルクス

斎藤 エコロジーの話に戻すと、マルクス自身に内在せずに自分たちの政治的主張や問題関心を正当化するためにマルクスを使うということは、海外のエコロジー研究でもしばしばおこなわれています。九〇年代以降、環境運動と労働運動、赤と緑の思想の対立をどうやって乗り越えるのかといった実践的な課題が出てきたときに、アンドレ・ゴルツやアラン・リピエッツは「マルクスの価値論は間違っていた」、「社会主義はもはや不可能である」など、あらかじめマルクスの限界性を前提にします。そのうえで、無制約な消費活動や利潤だけを追求するような生産はよくない、とうわべの資本主義批判を環境保護運動へつなげて、両者の折衷をはかるということをしていた。それでは結局マルクスの理論がわからないから、理論的にも実践的にも使えないと言われてしまう。
 それに対してフォスターやバーケットは、マルクス自身のテキストに沿ったアプローチから、価値論なり物象化論の中に非常に有用なエコロジー批判のための方法論的基礎があって、それをもとにして二一世紀の諸問題の分析と批判が展開できる、と主張しています。そういう研究姿勢が非常に重要ですね。
佐々木 そのあたりは伝わりにくいところがありますよね。マルクス研究者でも大半は「資本主義は利潤追求だから物質代謝の攪乱が起こる」というぐらいの浅いとらえ方しかしていません。けれども、マルクスのエコロジー論はそういう単純な議論ではなく、物象化論という近代固有の関係の分析にもとづくものです。つまり、私的労働や賃労働が必然的に生み出す価値の論理がいかにわれわれのライフスタイル、ひいては物質代謝の様式を変容させてしまうかという問題を根本的に考察することができる理論枠組みがマルクスの経済学批判であり、物象化論なのです。つまり、決定的なのは労働様式、すなわち物質代謝の媒介様式であり、それが物質代謝をどのように変容させるかということです。ここにマルクスのエコロジー論の生命力があります。
 このようなとらえ方をしたとき、マルクスにとって、たんに近代という社会形態の特殊性だけではなく、それによって編成される素材的世界の論理を把握し、そこに抵抗の拠点を見いだすということの重要性が立ち現れてきたのです。まさにそれが晩期の研究であり、そこで「物質代謝の思想」、あるいは「素材の思想」が全面的に展開されていくことになります。
斎藤 晩期の研究を知るための一次資料は抜粋ノートです。抜粋ノートは最後の一五年間にその三分の一がつくられ、そのうちの半分が自然科学、生物学や農芸化学や地質学、物理学についての研究です。マルクスが自然科学を勉強していたことを知っていた人でも、老マルクスは勉強に疲れて体調も悪かったために抜粋ばかりしていたとか地代論を完成させるために研究していたと指摘して終わってしまうことが多い。しかし、経済学批判という観点、とりわけその物質代謝という概念を手掛かりに、晩年の自然科学研究のより広い射程を明らかにしたのがこの本の意義です。
佐々木 晩年に作成された大量の抜粋ノートが偶然に作成されたわけではないことは明らかで、それを理解する一つの切り口として物質代謝論があることは確実です。もちろん、そこだけに集約されない可能性は残っているので、それは今後研究していかなければいけませんが、これらの抜粋ノートを見れば、マルクスがたんに階級闘争をやればいい、分配をすればいいとか、上手な経済政策をすればよい、というような狭い視野から社会変革を考えていなかったことは明らかです。マルクスはもっと巨視的な観点から資本主義、あるいは資本主義に対する抵抗の拠点をとらえようとしている。のちのグローバルな社会運動につながっていくような、豊かな視点を彼は提示しています。
 だからこそ本書は画期的な、マルクスを理解するうえで決定的な像の展開になると思っています。抜粋ノートは、共同体論やジェンダーなど、さまざまな角度で読めるのですが、エコロジーは、ひとつの決定的な論点です。それさえ理解してもらえば、この本は面白いはずです。ここまで体系的にマルクスの晩期マルクスとマルクスの物質代謝論を結び付けている本はありません。
 私は『マルクスの物象化論』の結論の部分で、マルクスの物象化論の展開から、晩期の抜粋ノートの意義は彼の「素材の思想」の展開にあったのではないかという仮説を提示しました。その仮説を、限定的ではあるけれど、抜粋ノートをもちいて論証したのが斎藤さんの博士論文であり、『マルクスとエコロジー』です。一部でも仮説が論証されたということで、緻密な文献研究にもとづいてマルクス研究が前進した、ということにもこの本の意義があります。それ以前は、リャザーノフのような優秀な研究者・編集者でも膨大な抜粋ノートの意味がわからなかったわけですから。
斎藤 おもしろいのは、同じような晩期抜粋ノート研究をしていたドイツのカール=エーリッヒ・フォルグラーフが我々とほぼ同じ結論にたどりついたということですね。彼の論文も本書に収録されていますが、翻訳していて興奮しました(笑)
 また、晩期マルクスのアクチュアリティでいえば、たとえば今後も環境問題で誰が影響を一番受けるかというと、グローバルサウスの人たちで、そこでは温暖化による海面上昇でツバルのように島が消滅しそうになったり、干ばつで農業に大きな影響が出たりする可能性が高いわけですよね。
佐々木 物質代謝の攪乱は、資本主義や社会の問題と、その原因だけではなくてその結果においても不可避的に結びつく、ということですよね。
斎藤 そういうときに、どのようにグローバルな連帯をつくっていくかについて、フォスターたちは考えていますが、マルクスも同じようなことを考えていました。マルクスはロンドンに住んでいましたが、アイルランド問題やインドの植民地問題など周辺社会とイギリス帝国主義の抑圧的なアシンメトリーな関係を分析していて、共同体の破壊や、グアノ(南米などからヨーロッパへ輸出された鳥の糞などを原料とする肥料)の乱費にみられるエコロジー的な関心も資本主義の問題として把握していくようになった。だから晩年のマルクスは共同体研究と自然科学研究を並行してやっていたわけですけれど、そういうものがまさに今日においてもグローバルサウスにおけるエコロジーの問題と経済的な搾取の問題につながってくる。方法論的に、マルクスの理論はいま我々の社会が抱えているような実践的課題を考えるヒントが含まれているのではないか。その意味でも、「素材の思想」・「物質代謝の思想」が重要になってくると思います。
佐々木 そうですね。『カール・マルクス』(ちくま新書、二〇一六年)でも少しだけ触れましたが、たとえば最晩年のザスーリチへの手紙もまさにそのような観点から読まれなければならないと考えています。ともかく、マルクスの社会変革論は政治的な技術論ではなく、資本主義のような人類の生産様式を根底的に変革する極めて特殊な生産様式、さらにそれに規定されているライフスタイル全体を変革することも念頭においていたわけであって、それだけの広い視野をもっているということです。


今後の研究について

佐々木私たちの研究は、個人個人のテーマはそれぞれ違いますが、共通の項目は三点あると思います。
一点目はマルクスの草稿研究。いま我々はMEGA第二部第四巻第二分冊、いわゆる『資本論』第三巻主要草稿を翻訳するプロジェクトに取り組んでいます。これまでの資本論の研究の多くはエンゲルスがマルクスの死後に編集した現行版『資本論』で研究をしていますが、マルクス自身の理論展開はやはり彼自身の草稿を読まなければ理解できない。もちろん大谷先生をはじめいろいろな研究者が取り組んできていますが、まだまだ追いついておらず、ひとつひとつ丁寧にやっていく必要があります。
二点目は抜粋ノートですね。これも膨大な領域があって、エコロジーに限らず共同体論やジェンダー論などさまざまな切り口で研究できると思います。そのことによって、晩期マルクスの資本主義観や、資本主義に抵抗する要素として彼が何を考えていたのか、を考察することができるはずです。
三点目はそういうマルクス研究を通じて、現代社会をどう把握し、理論を発展させるのか、ということです。エコロジーならエコロジーの理論研究で明らかになったことと現実社会をどういうふうに媒介するのか、という研究です。経済学でいえば、中央銀行が大規模な金融緩和をおこない、国家が巨額の債務を抱えているような現状や、国家の制度的な介入の意義や限界の評価など、マルクスの時代になかったこともマルクスの枠組みを使いながらどういうふうに解釈できるのか、いろんな課題を研究する必要があります。
斎藤 第三の点に関して、マルクス主義者のなかにもマルクスには限界があった、ということをあまりに早くいう人たちがいるわけです。久留間鮫造の研究などを国内外に打ち出していって、マルクス主義内部でもマルクス理論の意義を提示していく必要があるのではないでしょうか。
佐々木一五〇年前の人だから、限界があるのは当たり前で、それをいいたがるのはつまらない。むしろ、あれほどの天才からどれほどのものをくみとれるのかが重要だと思います。
斎藤 秋に堀之内出版から発行される『nyx』三号の「マルクス特集」では、たんに新しいことや目先の問題関心にとらわれて批判して、違う理論と接合して、ということをやるのではなく、テキストに内在して何をくみとれるか、というのをMEGAの最新資料や草稿を使いながら哲学、経済学、国家論、さらには共同体、ジェンダー、エコロジーなどの領域で検討し、もう一回マルクスの思想について考えよう、という企画も準備しています。
佐々木私は、マルクスの理論は資本主義を変革するための最強の武器だ、と『カール・マルクス』で書いたのですが、それには、マルクスの理論をこの現実に接近させるような媒介作業が当然必要です。また、そうした日本のマルクス研究を海外に発信していくことも重要になってくると思います。ということで、斎藤さん、頑張っていきましょう(笑)。


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