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言論と暴力。ー島田雅彦氏の「暗殺が成功して良かった」発言を考えるー Heimat作家・堀雅昭

夕刊フジ系「zakzak」によれば、作家の島田雅彦が安倍元首相の「暗殺良かった」などと発言したことで、いわゆるネット系右派ジャーナリストの有本香氏や同じく門田隆将氏、文芸評論家の小川榮太郎氏、弁護士の野村修也氏らから強い異議申し立があったという。その異議申し立てを要約すれば以下となる。

有田氏…「(リベラルは)選挙や政策論争に勝てず、支持を失っただけなのに、『(安倍氏が)殺されて良かった』というのは恐ろしい話だ」

門田氏…「〝目的が正しければ手段は正当化される〟が左翼の論理。国民は彼らの正体をもっと知るべきだろう」

小川氏…「大学教授という公的立場にある人間の発言である以上、社会は容認すべきではない。社会的責任を負わせなくてどうするのか」

野村氏…「本来リベラルは暴力による言論封殺に抗議する側。彼はリベラルの衣で仮装した別の思想家。目的の為なら暴力も許容する立場」

島田氏のテロ賛美(?)発言後に岸田首相兵の爆弾テロ未遂事件があったこともあり、一同は発言を巡る質問状を島田氏に出したという。

これに対して島田氏は「公的な発言として軽率」と認め、「殺人を容認する意図は全くありません」と全面謝罪をし、「批判は謙虚に受け止め、今後は慎重に発言する」と答えたという。

さて、安倍氏が、所謂保守政治家だったか否かの議論は、ここでは置くとして、あるいは島田氏が単純な「左翼」であるのかも置くとして、一連の両者のやり取りを見て、何か議論が深まってないと感じたわけである。そこで、この消化不良が何なのかを考えるため、NOTEに書いてみることにした。

すなわち私が感じた物足りなさは、「言論と暴力」の関係性の本質的な議論の不在なのだ。
島田氏側も、そして島田氏を糾弾する側も、この重要問題を、こんな時代だからこそ掘り下げて議論すべきだったのに、それがおこなわれないまま、感情のぶつけ合いだけで、結果として島田氏の安易な謝罪の形で、この問題の幕が閉じられたからでもある。

さて、問題の「暴力」とは「強制を伴った肉体的物理的な打撃力」と定義しても大きな異論はなかろう。この「暴力」には、よく言われるように、国家が持つ「暴力」=「軍隊」と、山上氏や木村氏のケースのような「個人の暴力」の2種類がある。そして今回、問題視されたのが後者の方であった。

実は奇異に感じれるかもしれないが、島田氏の暴力肯定論は、実は国家による暴力肯定も視野に入れた雰囲気を感じていたのだ。つまり「個人の暴力」の延長線上に位置する国家の暴力装置としての「軍隊」の肯定である。流れとして、それが自然であるからだ。

一方で「個人の暴力」を問題視した有本氏、門田氏、小川氏、野村氏は「国家の暴力」=「軍隊」も問題視するのだろうかと感じたわけでもある。
「個人の暴力」と「国家の暴力」は連続したもので、表裏一体のものだからだ。戦前の関東軍は、その代表と言ってよい。

したがってこの問題は、根本的には「暴力」の是非の議論となるわけだ。

私は山上氏の事件が起きた直後に「暴力」に関する問題を「テロリズムと三島由紀夫」と題して、NOTEに書いたことがある。そのとき三島由紀夫の「暴力」にまつわる以下の言葉を紹介した。

●「結論を先に言ってしまうと、私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております」

●「どうして暗殺だけがこんなにいじめられるのか。私は、暗殺の中にも悪い暗殺といい暗殺があるし、それについての有用性というものもないではないという考え方をする」

●「たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんな不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける。やはり身辺が危険だと思うと、人間というものは多少は緊張して、日ごろは嘘つきでも――まあ、こういうところで私が嘘をついていられるのも、皆さんの中にまさか私を殺す人がいないからであります」

三島氏は「個人の暴力」も肯定した作家なのである。また、それが三島の魅力でもあった。

一方で、そんな三島由紀夫のロマン主義に触発された右派思想家として、平成5(1993)年10月に朝日新聞社で自決した野村秋介がいた。

野村氏は遺著となった『さらば群青』で〈暴力と言論〉の関係性について、朝日新聞社出版局長の橘弘道氏と興味深い対談をしていた。野村氏は、この問題について、「暴力」の本質について以下のように示していたのである。

「暴力というものと平和というものは表裏一体になっているんです。こんな薄っぺらな名刺でさえ、表裏があるように、暴力だけ外しちゃった平和なんて世の中にはないんですよ。暴力というのは、逆に言うと、平和を論ずることより暴力を論ずることのほうが大事だと、僕は思う。それをマスコミは、平和は大事だ、暴力は否だ、とオブラートに包んだ。誰でも説得できるんですよ。だけど、それはまやかしなんだって、僕は言いたいわけ。暴力というのは避けて通れない人間社会の重大なテーマなんだ、と僕は思ってるんです。

野村氏のこの発言は、文脈からして国家としての「暴力」、すなわち暴力装置としての「軍隊」に比重を置いた意見ではあったが、一方で野村氏がマスコミの偽善性に疑問を持ち、記者クラブ制度などを糾弾したり、「個人の暴力」の理解者であったこともよく知られている。つまり野村氏は暴力は「避けて通れない人間社会の重大なテーマ」であり、それは否定するとか肯定するとかいう類のものではなく、「避けて通れない」といっているわけなのである。そして自らの「暴力」を使い、自らの人生の幕を閉じた人でもあった。

現在に欠落しているのは、この視点である。
つまり、テロを肯定しようがしまいが、結果的にテロは、起きるときには起きるという理屈である。もちろんそれが良いはずはないのだが、にもかかわらず起きるときは起きるというわけだ。
では、なぜテロが起きるのか。
これについても野村氏は同書で、現在のテロ社会まで予言するような興味深い発言をしていた。

「もしも街宣活動をさせないということになるのなら、地下組織を持ってテロ集団になっていったほうがいい。民族主義というのは、もともとアウトローなんだよ。(略)権力の側でどんどん街宣車を壊してくれればいい。そうすれば後はテロに走るしかない。そうなったとき、これまでの街宣車一本できた連中が、そのまま消えていくのか、それとも先鋭化して恐れられるようになるのか。(略)ともかく当面は、戦後に作られた虚構の神話と戦うこと。ネオ・ルネッサンスをやることだ。

野村氏の語る「権力が街宣車を壊す」という意味は、野村氏にとっては民族主義者への「言論の弾圧」を意味していたのだろう。

野村氏が亡くなり、すでに30年が過ぎた。
グローバル社会の中で国家観は希薄となり、多くの人が野村氏を忘れたかもしれない。しかし国家消滅の危機に瀕したグローバル化の弊害として、是正されない格差問題、外国人労働者の増加、優勝劣敗社会の蔓延など、多くの矛盾が露呈し、結果的に現在のテロ社会を用意したようにも見える。
その意味で野村氏の予言が、見事に現代社会に当てはまっているようにも見えるのだ。

今回の島田氏の発言が、テロ賛美か否かという表面的な事だけで終わったことが、日本社会の閉塞を意味していると感じるのは、小生だけなのかもしれない。
「暴力と言論」については、もっと本質的な議論が必要だろう。
それが唯一、テロを防ぐ有効な手段にもなるはずである。

野村氏が語ったように、暴力は「避けて通れない人間社会の重大なテーマ」なのだからだ。





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