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宇部詩人◉永冨衛さんが語る 

中原中也の母

宇部市床波2丁目の和田喜子(ひさこ)さん(81)は、詩人中原中也の母フクさん(1980年死去、享年101)に1963年から66年までの3年間、茶道を教わった。

宇部市の和田喜子さん

 和田さん(旧姓宮原)は山口市出身。明治生まれの母親ハナ子さん(1988年死去、享年77)は山口高等女学校(現山口高校)卒。昔では珍しい職業婦人である。俳句も詠んだ。同じ信教者同士のフクさんとはもともと懇意な間柄だった。三姉妹の次女の和田さんは嫁入り修行にと母親に勧められて、長姉と共にフクさんに茶道を学んだ。

 毎週土曜の茶道教室は中也の生家の茶室で開かれた。門下生は30人程度。フクさんの印象として「穏やか、柔和、謙虚、飾り気の無い人柄」といった言葉が和田さんの口から、とっさに飛び出した。小柄ながらも存在感があったという。「毎週お会いしているので、濃いお付き合いをさせていただきました」と振り返る。 フクさんは教室の休み時間に中也のことをしばしば話した。幼少期の中也はヘビやカエルをバケツに入れ突然、人に見せて驚かせるなどのいたずらっ子で、フクさんは迷惑をかけた近所の人にお詫びして回った。和田さんにはそのエピソードが思い出深い。しかし、そんな中也でも周囲が認めるほど神童とささやかれていたのだ。


和田さんと中原フクさん(右)

 和田さんが茶道を習った昭和40年頃は、中也は日本を代表する揺るぎない詩人としてすでに衆目の一致するところだったけれど、フクさんは中也の自慢話はいっさいしなかった。それより都会暮らしの第1子、中也の生活を案じ続けた、フクさんから母性愛が伝わってきたという。30歳で夭逝、なおさらであろう。


フクさんからプレゼントされた茶せん(箱に昭和38年6月22日記入)

 生家近くの井上公園に建立されている詩碑「帰郷」。フクさんから「中也が井上公園に腰を据えて書いたのです」と聞いた。和田さんは、母親と中也の心の距離感の近さを覚え、併せて中也が古里に馳せる思いの強さを感じたという。  そして和田さんは詩の〝ハイライトシーン〟の「これが私の故里だ/さやかに風も吹いている/心置きなく泣かれよと/年増婦の低い声もする」を口ずさんだ。「母親なら分かるんです」と言いたげな顔をして。

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