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門司港史を掘り起こす(FM KITAQインタビュー)3

FM KITAQ
小倉魚町インクスポットビル 3Fスタジオ
2022年5月21日(土曜)17:00~18:00

《出演》
地域コーディネーター:是松和幸
MC:野津亮祐
AC(アシスタント):大岩夏美(北九州市立大学生)
ゲスト:堀雅昭(歴史ノンフィクション作家・UBE出版代表)

《門司港と久野邸について》


旧・久野勘助邸(現、松浦孝アトリエ)


 
MC
それでは再び堀さんの方に、いろいろお伺いしていこうかと思いますが、ラジオが始まる前にお話しさせていただいたときに、今年の4月に門司の久野邸で講演をなさったとお聞きしたんですけど、あれはどういう関係から講演をなされたんですかね。
 

久野邸というのが門司の方に残っているのは、久野勘助っていう人の家なんですね。
 
今、門司港美術工芸研究所の所長をされておられる松浦孝さんが、アトリエとして使っておられるんです。実はあの家が、私のオバアチャンの親元でして。
 
MC
そういったことで講演をされたということになるんですね。
 
おばあさまが、門司の方とちらっとお聞きしたんですけど。ちょっとこちらについても、お聞かせいただいてよいですか。
    

あのー、祖母も久野もそうなんですが、もともとは山口県の徳山なんですよ。
 
なんですけど、日清戦争ってあったじゃないですか。明治27年から28年にかけて。それが終わったときに久野もですね、山口県から門司の方に移り住んで、そこで米問屋をやったというわけです。
 
門司港というのは先ほどちょっとお話したように、頭山満と杉山茂丸の話し合いの中から築港が始まり、大きな港を造っていくという話になるんですけど、門司港って、満洲みたいな場所なんですよ。
 
満洲って、ご存じないかもしれませんが、今の中国に昭和の6年に満州事変というのがあって、関東軍によって人工的な国が造られていったんです。
 
そこには朝鮮とか中国とか、まあ中国人でも漢民族とか満州族とかいろいろいるんですけど、あるいは白系ロシアとか、もちろん日本人も入るんですけど、そういう合衆国みたいなのを作るんです。ちょっとあれに似た感じで、突然できた港町に四国や九州の各地からも入ってきて、ひとつの大きな街ができるという形になったわけです。
 
で、久野も、結局はそういうひとりだったんですね。先ほどもちょっと申し上げたように、九州鉄道を門司港に通して、筑豊の石炭を運んで輸出すると。そういうことで明治20年代の頭から築港がはじまるんですけど、実に5年くらいで出来てるんです。
 
何か一旗揚げたいなという人、今でいえばベンチャー精神というのですかね、そういう気持ちを持っている人たちが、ワーッと集まってきた場所なんです。まあ、ある種、特異な場所だったんですね。
 
MC
そうですか。今でこそ、門司港の方に遊びに行っても、門司港レトロきれいだなとか、夜景がきれいでイルミネーションやってますとか、そんな感じで眺めているだけだったんですけど、なんか実はすごい激動の歴史というか、すごい場所であったことが今のお話を聞いてよくわかりました。
 

すごく変わった歴史を持ってますよね、人工的な港町ですから。
 
ですから、5年間で…、いま大阪商船のビルが残ってますが、商船会社だとかですね、それから銀行、それから大里のほうには浅野セメントの跡地が残っていますけど、工場がですね、一気に出来上ていくという。そして一気に国際貿易港として栄えていくという…。
 
ですから久野勘助の一家が入ってきたのは、その出来立てホヤホヤの時期だったのですね。で、私のオバアチャンのお母さんというのが、勘助さんのお姉さんになるのかなあ。そういう関係なんですけど、実はオバアチャンは明治30年生まれなんだけど、早く死ぬんですよお母さんが。それで5歳のときから久野家で過ごすんですね。で、勘助さんは明治20年の生まれで、10歳違うんだけども、もう叔父さんというよりも、兄弟みたいにして育つんです。
 
なのでオバアチャンは、錦町女子尋常高等小学校に通って、私の家にも卒業証書がありますけど、明治45年3月に卒業しておるわけですよ。通知表もあるんですけどね。
 
AC
へー。
 

ですからね、ウチのオバアチャンというのは娘時代を全部、久野で過ごしておりますし、もう門司の人みたいな感じでしたね。
 
明治30年の生まれというのは、私も面白いと思うんですけど、日清戦争はまあ経験してないんだけど、日露戦争(明治37年~同38年)、それから第一次世界大戦(大正3年~同7年)を門司港で経験して、あと山口県の宇部に帰ってきて大東亜戦争というか、最近は太平洋戦争というんですかね、それを経験したんです。3回戦争を経験してるんです。
 
でもね、やっぱり門司のときの話が一番生き生きとしてね、久野の話を亡くなるまで、ボクに言ってくれましたね。
 

《久野勘助とは何者か》

久野勘助

 
MC
ありがとうございます。じゃあそんな久野さんのお話について、もっともっと深堀をしていきたいと思うんですけど、先ほどちょっとおっしゃっていた「門司の三羽ガラス」というのは、石油の出光佐三さん、それから廻船業をされていた中野慎吾さん、それから先ほどご紹介戴きました久野勘助さんですね。 

先ほど先日講演をされたとおっしゃっていた松浦さんのアトリエになっているのが、その久野勘助さんのお家ということですので、大岩さんの方からですね、戴いた資料をもとに、久野さんの簡単な紹介をしていただきたいと思います。 

AC
じゃあ私の方で、簡単に説明させていただきますね。 

まず、『郷土の100人』という本にですね、「出光が商工会議所会頭、久野が副会頭、中野が市会議長。この三人が組んだら世の中に不可能の文字はなかった」と書いてあります。「世の中に不可能の文字はなかった」というのが、なんともすごい表現ですね。

 続きましてですね、昭和9年にはじまる「門司みなと祭」や、同じ年に開設された「松ヶ枝ゴフル倶楽部」も、門司の三羽ガラスが手がけたということです。

 松ヶ枝ゴルフ場は今もあるんですが、最初のクラブハウスは珍しいカヤブキ屋根で、これは出光佐三さんのアイデアだったということです。 

また、はじめは小倉側に造られる予定だった関門海底鉄道トンネルの出口も、門司側に変更させたのですが、これも三羽ガラスの力だったそうです。 

久野さんは実業だけでなく、門司市の市会議員や、福岡県会議員も歴任されておりました。

また、昭和19年にはタイ米輸入の関係から門司駐在タイ国名誉領事にも、なっておられます。

そして戦時中は久野商会が、タイの米を輸入していたそうです。戦時中の門司港は、食糧輸入の基地でもあったわけですね。

 それから、戦後は門司文化会館(現、門司市民会館)の建設を後押しされたり、昭和29年には門司市文化団体連合会の会長になったりして、『門司文化』も創刊されておられます。

 門司に住む古い人にとっては懐かしい「久野パン」も、久野さんの会社の社員の方たちが造って売っていたパンでした。

現在は、その久野さんが昭和8年に建てた家が、松浦さんのアトリエとして、毎年春と秋の2回、美術展の会場として地域の憩いの場となっているのは、先ほどお話に出たとおりです。 

ついでに申しますと、いまは直接は久野家とは関係なくなったと聞いておりますが、門司港には久野さんが興した久野商会が営業を続けておられますし、ヤマエ久野さんも、久野さんの名前を残しておられるそうです。

 久野さんの経歴というか、紹介は以上になるんですけども、実際その久野勘助さんとは、堀さんご自身、お会いになったことはありますか。 


《戦争と久野勘助》

久野勘助の葬儀風景

 堀
ボクはですね、実は昭和37年の生まれなんですけど、勘助さんは、昭和42年が明けてすぐ亡くなっておるんです。 まあ、80歳で亡くなるんですけど、ボクが5歳になる年なんで、直接の記憶っていうのはそんなにないんですね。 

ただ、その葬儀のとき、まあ、門司の文化会館で葬儀が行われたんですけれど、町中での葬儀のような感じがしまた。子供だったからでしょうけど、その印象は非常に残っております。

 で、そのあとのオバアチャンの思い出話みたいなところからですね、久野勘助さんのことはイメージが出来ていったんじゃないかなと。もう、とにかく、オバアチャンというのは、久野勘助の話を良くしておりました。

 例えばですね、戦時中の話もしておったんですけど、昭和17年夏に…、もうそのときは私のおばあちゃんは山口県の宇部の方に行ってるんですけどね、当時、大水害があったんですよ。 

厚東川という川が氾濫しましてね、周辺の家が全部水浸しになるというような大災害だったんですけど、まあ、当然、畳が全部流されてしまうんですね。

 モノがない時代ですので、みんなが困っているという時代があったらしいですね。ところがね、私の家っていうか、オバアチャンの家だけですね、畳がすぐ軍から入ってきたらしいんですよ。

 AC
へー。

 堀
そのとき、みんなが、なんで堀さん所だけ畳が早く入るんだ、みたいな話があったらしいんですが、まあ、ようは久野勘助がですね、実は戦時中に軍の関係の仕事もやっとるんですよ。

 当時は門司の商工会議所の会頭なんですけど、なんていうのかな。東京裁判で絞首刑になった松井石根っていう人が顧問を務めていた大政翼賛会興亜総本部っていうのがあって、(久野勘助が)門司支部長をやったりしておりましたんで、軍に食料を供給したりということでですね、軍と密接な関係があったんで、畳も早く入ってきたんじゃないかと、今となってはそう思うんですけど…。 

そういう意味では久野家からは、戦時中も非常に高価なものも、たくさん届いたみたいです。

とにかくオバアチャンのタンスの中には高価な反物がたくさん入っていました。 私のところはサラリーマンですので、そういうものを買えるような感じじゃなかったんですけど、なぜかオバアチャンだけはたくさん良いものを持ってました。うちのオフクロなんかは、ひとつくらいくれりゃあいいのになあと言っておりました。

 まあ、そういうことで勘助さんが亡くなってからも、祖母といっしょに門司の久野家に遊びに行ったりして、ずっとお世話になっておったわけです。

MC
今のお話を聞いて、先ほど4月に堀さんが旧久野邸で講演をされたってことも、そういった昔からの久野勘助さんとの関係があって、門司港について話されたっていうことだったんですね。(つづく)

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