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ぼくのマージナリア ~高木正勝「Marginalia Ⅲ」と「大山咲み」上映会から~

今から20年近く前、祖父が亡くなって山の家に祖母が独りで暮らすようになった夏。僕は特になにをするわけではないけれど、ちょくちょく山の家に泊まりに行っていた。その夜は居間でうたた寝をしてしまい、すきま風の寒さで目覚めると、目の前にどういうわけか一匹の蛙がちょこんと座って僕を見ていた。ただそれまでも居間でうとうとしていると、ネズミが米をかじってたり、蛇がとぐろを巻いていたりと、まぁそういう山の家だったのでさして驚きもせず蛙を逃がそうと窓を開けると、空が闇夜から仄かに深青へと変わりゆく夜明け前であることに気づいた。それで妙に目が覚めてしまった僕は、夜が明けるまで散歩をすることにした。
ウォークマンに入っていたFishmansの「8月の現状」を聴きながらテクテクテクとあてもなく山の方へ。30分以上歩くと、空が群青と燃える赤の混じるちょうど夜明けのタイミングで山奥の大きな貯水池に辿りついた。イヤホンを耳から外して、湖畔の方に耳を澄ますと鳥の鳴き声や虫の声、水が流れる音が様々に聴こえて、ふとこの目の前の景色は自分が生まれる前からあって、自分がいなくなってもこうして延々と続いてゆく永遠の一コマなのだなぁと、今ここで僕が何か音や声を発しても何かが崩れてしまうなぁとそう思った。そして、それまでどこか悲しいと思いながらイヤホンで聴いていた「8月の現状」の最後の曲「新しい人」の歌詞「音楽はなんのために鳴りひびきゃいいの こんなにも静かな世界では…」は音楽家が自らの力の無さを嘆いたのでなく、この目の前のほんとうのことを、この世界の美しさを言っていたんだなぁと初めてそう思った。

それから長い年月が経ち、あの朝のことなどすっかり忘れていたある日。高木正勝くんのSNSに挙がった「Marginalia」を聴いて、たまげて座っていた椅子から転げ落ちそうになった。人が入る隙間などないように思えたあの静かな夜明けの汀の世界に、人間がピアノを鳴らし、それが違和感なく融け込んで、しまいにはピアノの音は鳴ったままに高木くんの個のようなものは消えてしまっていたから。あんまりびっくりして、思わず本人に連絡したらところ「寝ぼけとった…」との返答で、いつも気さく過ぎてついつい忘れてしまうのだけど、「ああ、この人は天才なんだった…」と改めて思った。

大山咲みチラシ表

思い起こせば、2年前「大山咲み」の上映会で来てもらったときに、高木くんが石牟礼道子さんと志村ふくみさんが手掛けた能「沖宮」を観た経験から、能での太鼓を山で鳴くミンミンゼミに見立てて、各楽器の演奏は山の中の生き物たちがそうであるように他の演奏にあわせるのでなくバラバラのままの「和して同ぜず」がいいと言っていた。そうしていると全体の演奏が山の中にいるのと同じようになり、「山咲み」でもそれを目指したと。
(鼎談相手の人類学者の石倉敏明さんはそれを「共同体」から「共異体」への視座で表していて、山伏の坂本大三郎さんも“場を豊かにすること”の大事さを話されていた。途中石倉先生が沖縄でのフィールドワークの話で男気が炸裂して、大三郎さんと「山ブラザーズ」というプロレス・タッグを結成すると宣言したり(笑)と、山の話から派生した世界の不思議に触れるようなとても楽しい時間だった。結局コロナ禍で見れなかったけどビエンナーレ出展の「宇宙の卵」生で見たかったなぁ)

大山咲み3ショット

大山咲子どもら


たしかに山の中を歩いていると、いつのまにか自分自身が消えて風景の一部になるような感覚になる時があるけれど、一体あれはどういうことなんだろうか?
そんなことを悶々と思いながら生活していると、仕事帰りの深夜のカーラジオで能の世界には「対話」ではなく「共話」という考え方があるという話がされていた。
「対話」がまず話し合うもの同士の差異を浮き彫りにするものであるとするなら、「共話」は互いに未完の文を投げ合い、語りを進めながら協働して文を作ることで、お互いの主体が交わり、主体がそのコミュニケーションの場に融け込んでいく、と。
そういえば高木くんの「Marginalia Ⅰ&Ⅱ」は家の窓を開けて、外の自然とやりとりしている対話のように思えたけど、「Marginalia Ⅲ」ではもう内と外の境界が曖昧になり、ピアノは自然の中に共にあるようにすら思える。そして、そのことがとても心地良い。深々と息ができるような、あの感覚。
ふと、この感覚を僕は知っていると思う。そして、「Marginalia」を聴いてどこか懐かしいのは、この感覚を自分の身体がどこかで覚えているからだ。それはいつのことだったろうか。

マージナリア3

昨年コロナ禍の中で山の家の祖母が亡くなって、祖母のいない二度目の田植えを控えた今年の五月。カラカラに乾いてひび割れた土壌に水を張り、代掻きをして、粛々と田植えの準備をした。田の土手の一角にあった祖母の特等席にはもう誰もいない。田植え当日、手伝いに来たはずの妻や幼い子どもたちは、隣の畑に萌えるアスパラガスの収穫に夢中で泥まみれになる田植えにはあまり興味がないようだ。昨年祖母が亡くなって以降、村の90代がバタバタと亡くなってしまい、例年超高齢ギャラリーにダメだしされながらの田植えが常だっただけに、昨年まだ祖母が亡くなったばかりで実感がなく感じていなかった一抹の寂しさを今回は覚える。
ぼんやりと田植え機に乗っていると植えるべきラインをだいぶ逸らしてしまい、慌てて長靴を脱いで素足で田んぼに入った。隅っこ植えでなく、田んぼの何列も手植えするのなんて随分しばらくぶりで、運動不足の身体がなかなか思うように動かない。腰の痛みに耐えながら、それでも一心不乱に手を動かしていると1つ1つ苗を植える度に身体に自分なりのリズムが甦ってくる。
苗を手に取り、かがんで土に苗を入れる。ぬかる足を踏ん張り一歩前へ。また苗を手に取り、かがんで土の中へ。また一歩、また一歩。黙々と身体を動かし繰り返す。土の中の指先にタニシのザラついた殻が触れる。目の前の水の中には大きなミミズやヒルも見え、水面にはアメンボが泳いでいる。水を張る前には何もいないように見えたこの田んぼには今たくさんの生き物がいて、水面には自分の顔が見え、その背後にはトンビの円を描きながら飛んでいる姿が見える。苗を植える自分の手先が水面に落ちる一滴のしずくのように思え、静かだなぁと。見つめた水面の静けさに見つめ返され、なにかに耳を澄まされている気がして、水面に全ての生き物が一元化して或るようなそんな錯覚を覚える。少し強い風が吹き、自分の後に映っていたトンビがピーと鳴いて、風を掴んでより高い空へ舞い上がっていった。僕は顔を上げ、祖母の特等席をもう一度見て、その不在を確かめるけれど、なにかもう全て自分の中に脈づき流れているような気もする。
この感覚。このあわい。あの手触りの先にある、感覚への希求。
僕の「マージナリア」はこのようにして生活に息づいていることに気づく。


めいタンポポ


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