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【卒業式】先輩が 卒業しない 十年も

 「ほっか、十日戎やったなあ。ほんなもん、わざわざ行くかいな。人混みを拝むようなもんやで。神様かてワシの願い事くらい解ったはるやろ。それにやで、この歳んなって今さら商売繁盛もないやろ。」いつものようにカップ酒をぶら提げてあのオンボロアパートを訪ねると、相変わらず冬さんは物置のような六畳板張りの中で健在だった。
 「餅食うた以外、正月らしいこと、何もせえへんかったなあ。ああ、せやせや、ばったり同級生に会うたんや。そら、ワシかて中学くらい出とるで。この歳んなったら死んでもうた奴も多いやろうけど、賑やかなようで狭っまい街やし、地元やさかい、帰省しとる奴を偶さか見かけても別におかしないわな。中学ん時から優等生で、東京でどっかの会社の役員しとった奴でな、今の家は横浜なんか川崎なんか忘れてもうたけど、犬の散歩が日課らしい。でな、暫く立ち話しててんけど、半分は嫁はんの弟ゆう人の愚痴に付き合わされたようなもんやった。ほれ、今日日60過ぎても、定年後再雇用っちゅうので働き続けるやんか。給料落ちるけど準社員やし気楽なもんや。義理の弟はんもそれで65まで働いててん。ほったら、その5年の間に法律が変わって、70まで働けることになったんやて。ワシが『そら、良かったなあ』て相槌打った刹那『ええことあるかいな』と来たもんや、これが。『大した仕事も出来ひんのに往生際が悪い。体だけはやたら元気でも、意欲と態度が腐っとるから、質が悪い。毎朝7時に家を出て、8時には会社に着いて、“どうや、偉いやろ”ってえ顔されてもな、ほんなもん当たり前やんか。“現役はもっと頑張っとる”って言うたら、“せやかて兄さん、ワシもう歳やで、しんどいわ”って、聞いて呆れるわ。ウチのオカンなんぞ、毎朝5時には起きて、体壊すほどキっツイ重労働に耐えてはったわ。そないにイヤなら会社辞めろや。老後の生活がどうのこうの言うていつまでも引退せえへんのは、若者の居場所を奪っとるだけや。アレが倅やったら、どついとった。』って、ハッキリ言いよった。なあ、会社の経営者らしい目線やろ。せやけど、いちいち正しいし、ワシも全く同感やった。こんな老い耄れのワシかて『爺は早よ引っ込んどれ』てェ言うんやで。まして、今の若い衆なんぞ、老害に塗れて、言いたいこと仰山あんのとちゃう?最近の年寄りっちゅうんは確かに醜い奴が多い。世間様をナメとんな。」・・・古稀を迎えるまではあれだけ我儘放題だった冬さんも、傘寿を過ぎればこれだけ丸くなるものかと勝手に感心していたが、待て待て、冬さんの年齢にしてみれば、緑寿そこそこの男などヒヨコ同然ではないか。自分より10歳以上後輩なら、その人にとっては皆“最近の若者”に分類されるのだと、春代の体育の先生が仰せになっていた話が思い出される。
 「年寄りの手ェまで借りひんと成り立たん程の労働力不足やったらな、人が少のうてもその業界が回るよう無駄な仕事減らすんと、人がようけ集まるようその業界の地位と報酬をドーンと上げたったら仕舞いちゃうの。やけど、企業努力っちゅうにも限界がある。せやし、政治家の出番やがな。批判を浴びるんは、それだけ行動を起こしとる証拠やてよう言わはるけどな、どのみち行動せえへんかて批判を浴びんねんから、年寄りを延々と働かせるのもええけどな、国民の生活維持に必需やのに明らかに供給が追い付いてへんような業界を根っこから救ったったらええねん。ほんでもあかんな。政治家自身が年食わはったジャイアンばっかりやさかい。この社会、ジャイアンとスネ夫ばっかり目立つからおかしなる。のび太もおって、しずかちゃんもおるさかい、世の中はおもろいのやし、国っちゅうのはなあ、弱者救済の基本精神を忘れんと、常にドラえもんであろうと努めなければならないのであります。ってェ、もうバレとるな。コレ、全部、テレビによう出たはるコメンテーターの受け売りや。でも、毎回ええこと云うたはる思うわ。なっ、年寄りが働きもせえへんで毎日テレビ視とると、みるみるうちにアホもかしこなんで。」・・・私が中高生の頃までは定年55歳という会社が珍しくなかった。私はそれを羨ましいと捉えてしまう性格の人間なものだから、そもそも還暦を過ぎても会社に居座り続ける根性を具有していない。当世の若者は言うまでもなく、私の世代ですら、もはや年金制度や定年延長などに期待することも無く、自力で老後を暮らしていける資金計画を綿密に立てている。従って、私のような部類が抱いている不安とは、まさに冬さんの――正確に言うと、冬さんの視ているテレビ番組のコメンテーターの――指摘する通り、介護業界の人手不足なんかに主軸があるのだ。
 
 「そら、役に立つ年寄りはええで。ワシみたいに役に立たん年寄りまで出来るだけ長生きさせようっちゅうんやから、医者ゆうのも因果な商売やなあ。タバコを止めろ、鹹いもんを控えろてェ、いとも簡単に言わはるけどな、これはポロシィ、いや、ちゃうな、そうそうポリシーゆうやっちゃ。たかがラーメン1杯のために行列に並ぶなんてバカバカしいゆうポリシーの奴もおれば、並んでまで食べる価値があるゆうポリシーの奴もおる。ワシからニコチンと塩分抜いてもうたら、そら、ポリシーまで抜かれた廃人同然やて。せやけど、ワシかて、きっちり病院には通ってんねんで。此間なんか、栄養指導の先生がメタボの患者はんに一生懸命『食べ物を残すように努力しましょう』てェ説いてはるんや。ほったら、その患者はん、えらい真剣な顔して『親の遺言で食べ物は残せません』てェ返さはるんや。アンタはどっちのポロシィが正解やと考える?」・・・私は食べ物を全て美味しく頂く主義の一方、行列に並んでまで何かを食そうとは思わないポリシーを実行している。
 「ワシらが入院しとった頃を思い出すなあ。ほれ、アンタの主治医、ハクい女やったなあ。」・・・えっ、この爺さん、30歳の私が大腸癌で入院していた折、ベッドが隣同士だったことを急に思い出したのか?こりゃ、怒られるなあ。なぜなら、すでに私は退院から5年後、クリスマスイヴの新世界の映画館で冬さんと遭遇した際には、辛うじて彼の残していた面影を頼りに、同室患者だった過去を回想していたからだった。が、彼のほうは全く判っていない様子だったし、余計な情報を持ち出しても仕方なかろうと黙っていたのである。「何で今まで隠しとったんや」という科白が今にも飛び出すことを覚悟していたが、寧ろ冬さんはご満悦この上ないといった表情で話し続けた。
 「せやろ!やっぱ、せやな!いや、何度か会うてるうちに記憶が蘇ったんや。アンタもそやろ。いや、知っとったかて、別に隠しとったわけともちゃうやろ。まっ、どうでもええわ。ほんで何の話や、せや、女医はんの話や。ケッタイな人やったなあ。」・・・私の主治医は私より若いかもしれない女医で、白衣と同化するほど色白の細長い指が艶っぽかった。入院中に一度だけこの指が私の肛門へと捻じ込まれた瞬間、17年前の若かりし私は、今目の前にいる冬さんよりもっとご満悦この上ない表情を浮かべていたであろう。あれは3ヶ所の癌のうち直腸にも1つ出来ていた腫瘍の位置と大きさを確認するためのものだったが、本当に一度きりで、それ以外の日常にあっては大した問診も無かった。1日に1回、ピクリとも笑わずに私の下腹部を軽く触診して、「特に問題ありません」と目も合わさずに告げた後、私がそれまで開けておいたカーテンをわざわざ全部閉め切ってから立ち去るのである。帰りに閉めるくらいであれば、触診の時にこそ周囲の目隠しとして閉めてくれてもよいものを。不可思議な医師だが、喜怒哀楽を一切漏らさない態度に相俟って、端麗な顔立ちのせいでもあるだろうか、私は妙な性的興奮を覚えていた。そんな飄々とした彼女が触診の前に1つだけ頑なに私へ命ずるのは、仰向けに寝たときに膝を軽く曲げよということだった。もちろん大腸の動きを診断しやすい姿勢なのだろうが、実は軽く勃起していることがバレているのではなかろうかと私は内心ヒヤヒヤしていた。
 「アンタ、あの女医はんにプロポーズしとったら、今の今まで独身っちゅうことも無かったかもしれへんで。なんせアンタのケツに指入れたオンナやで。アンタのオンナも同然やんか。普段は目ェ合わさへんのも照れてはったのかもしれへんで。あの真っ白な指にアンタの指を絡めてな、『必ず幸せにします。人生最後の一滴まで貴女だけに注がせて下さい。』って誓うんや。そら、最後の一滴てェ、子種に決まっとるやろ。余所さんに浮気はしまへんゆうこっちゃ。」・・・もし世の中に「上品な爺」と「下品な爺」が在るならば、私はやはり後者にはなりたくない。下品な爺は嫌われ、嫌われている人間は死ぬ間際という貴重な時間に嫌や~な思いをしながら息を引き取っていくものと信じているからだ。但し、下品もここまでの域に達すると尊敬にさえ値する。
 「ワシもあの女医はんのおかげで、ワシより先に永眠してもうたムスコまで息吹き返したみたく疼きよって、気力充実の入院生活やったけど、それでもな、退院した日の外の空気の美味さゆうのは格別やと思うたわ。『きっと刑務所を出はった人ゆうのもこないな気分なんやろか』てェ思うてたら、『病院では番号で呼ばれることもなければ、労働もないやろが、このド阿呆』てェ“神様からのツッコミ”がふと聞こえてきてな、ワシのズレたピントをきっちり正さはってん。その日やったな。アンタとカップ酒を買うて、鴨川の畔で2本飲み干したその足でバスん乗って、阪急乗って、淡路から地下鉄ん乗って恵美須町まで来てやな、久々に“えべっさん”を拝んだんや。『助けてくらはった命、まともに使い切ります』誓うて、その日のうちに忘れて、結局このザマやけど、京都から地元に帰って余生を過ごそうと決めたんは、あの日やった。」・・・番号で呼ばれない代わりに、入院中の患者は必ず左手首にバンドを嵌めさせられていた。バンドには氏名・性別・生年月日・病棟とIDを示すバーコードが印字されていた。治療と管理に必要なことだとは理解しているものの、ずっと外せないことが存外にも鬱陶しかった。だから、退院したあの日、これを外した時の気持ち良さはカップ酒の1口目に比肩するものがあった。そして冬さんの息子と呼んでも不思議でない程の若さであった私もまた「助かった命をまともに使い切ろう」と誓っていた。亡くなった父親のフルネームを自筆したのは実に「死亡届」以来のことであった。問診票に親族の病歴や死亡の有無を書かねばならないのだ。そのボールペンを走らせつつ、元気な者が生きることを大切に扱わないのは見苦しいし、人生を先に卒業した方々に対しても何となく失礼であると感じていた。粗末な生き方を誰にも否定する権利はないが、自分自身が粗末な生き方に埋没するのだけはやめようと、手術を契機に心掛けたのである。
 
 「人から好かれたり、世話んなったり、助けられたり、自分が生きとる周りの環境に恵まれるゆうんはな、自分の徳の積み方次第やんか。やけど、ナンボ徳ゆうたかて大部分は親から譲り受けた血と育ちに左右されるやんか。ワシみたいに生まれつき徳を積むのが下手くそな奴もおるさかい、アンタがまず両親に感謝するっちゅうのは正解やで、ほんまに。
 さっき話したワシの同級生の義理の弟はんっちゅうのはな、印刷会社に勤めてはるんやて。ほんで、その会社は、御神籤やら福引やら、紙を小さくカットして折り畳むようなもんを受注してんねんて。所詮、人なんぞ皆、癌になって初めて健康の有難みが分かるような盆暗なんや。『大吉』やら『一等賞』やら、そんなんばっかり大量に印刷しとったら、そら、だんだん感覚が麻痺してきてやなあ、70まで働けるのが『大当たり』の人生やっちゅうことにも気付けへんのんとちゃうか。」
 傘寿過ぎの独身男と桑年手前の独身男による「病気談義」はこの後も・・・つづく

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