朝日新聞が「言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル」というインタビュー記事を注釈なく掲載することについての違和感

今年の8月2日、朝日新聞が作家の星野智幸氏のインタビュー記事を掲載し、SNSなどでは反響が大きかった。
言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル 星野智幸:朝日新聞デジタル (asahi.com)
私は最初それを、非常に共感しつつ読んだ。しかし次第に違和感の方が大きくなっていった。今ではむしろ、大きくなったその違和感の方について書き記しておくことが、現代の日本の思想や社会現象を理解するために有用であろうと考え、この小文を準備した。

この記事は最初の2200字程度が無料で公開されている。残りの1600字弱は有料記事になっているので、有料の部分に触れることは最小限にしたい。
作家の言葉は詩的で鋭く、私たちの心に刺さる。「政治や社会を語るこういった言葉が、単に消費されるだけで、分断されていくばかりの社会において、敵か味方かを判断する材料でしかなくなっている」。
本当に、社会について語ることが建設的な効果を発揮することの希望は、次第に希薄になり、「日本」のような「大きな主語」で物事を語ること自体が恥ずかしいことかのように見なされる場合がある。

星野氏のインタビューは、2013年の「『宗教国家』日本」というご自身が寄稿された記事を振り返る内容となる。
その前半では、「日本」で普通の人だと自分のことを感じていたような人々が、偏狭なナショナリズムに依存する傾向が強まっていることが語られた。個人を捨てて国家という集団の中に埋没するようなあり方が、広まっていた。そのような事象に対して、星野氏は社会批評を活発に行った。やがて、そのような活動を継続することへの「疲れ」を自覚し、友人からも指摘された。
そこからさらに一つ先の気づきが語られる。自分が「私の発言に同調している人たちの神経を逆なでするかもしれない内容」を言わないようにしているという現実だった。「日本人」依存をしている人々を批判する、リベラルを自称する人たちも「正義」に依存したコミュニティーを形成し、そのコミュニティーにかかわる人々の個を圧迫しているという状況は存在した。

私はこの内容を読んで、最初は強く共感した。「日本的リベラル」の権威性と独善性は、目に余る状況だと考えていたし、自らもそのような発信を行うこともあったからだ。
個人的な経験に少しだけ触れさせてほしい。私は2011年の東日本大震災・原発事故に衝撃を受け、2012年に福島県南相馬市に移住し、専門である精神科医療を中心に活動しながら、時に小文を発表している。移住当所、被災地の窮乏を訴え、国や東京電力等の姿勢の至らないところを指摘する文章を発表し、一定の注目を集めたことがあった。
やがて現地での放射線被ばくによる直接的な健康被害の影響はきわめて小さいとする研究結果が公表されるようになった。その研究内容は、私には十分に正当な科学的方法を用いて得られたように思え、信用に値すると考えた。そしてそれは、現地で生活して経験していた内容とも矛盾しなかった。
しかし、「原発事故後の放射線被ばくによる直接的な健康被害は小さい」と訴えることは、リベラル派のコミュニティに属する人々の神経を逆なでする内容だった。それでも、医学部で教育を受けたものとしての良心や、地域の復興を願う人々の熱意に触れていたこともあり、そのような内容を発信した。その結果、リベラル派の友人たちとの関係は疎遠になった。明確に批判されたこともある。また、それまで私に敬意を示してくれた人の中には、態度を変化させて見下す態度を示すようになった人もいる。
「移住などを介した間接的な健康被害は間違いなく存在し、その悪影響は大きいので、そちらに着目すべきだ」と訴えたが、多くの場合に無視された。

したがって、「日本的リベラル」の代表格である朝日新聞がこのような記事を掲載したことには、重要な意義があると考えた。
日本人でリベラルを自認する人たちの中にも、日本的リベラルにおける格付けの最上位の一つである朝日新聞にこのような記事が掲載されたことで、他のところから批判された場合とは異なり、それを真剣に受け止め、痛みや葛藤を感じた人々がいたようだ。

違和感の内容について自分の心中をよく探ってみると、次の二つのことがあった。
①星野氏の主張にも、特に後半の有料で書かれている部分には、賛同できない部分がある。
➁星野氏の主張が、そのまま朝日新聞の主張であるかのように受け止める読み方がされているが、そのような雰囲気があるだけで、そのことは明示されない無責任な紹介の仕方である。

➁について説明する。「正義に依存して個を捨てる」ような言論活動を行ってきたと批判されているのは、特に、朝日新聞のようなリベラル派とみなされる大新聞や大手メディアなのではないだろうか。そうだとするならば、自分たちがそのような「正義に依存して個人を捨てる」ような活動を行ってきたという自覚はあるのだろうか。
もし朝日新聞が、自分たちの今までのそのような活動に問題があったことを認め、そのことを反省して謝罪した上で、星野氏の記事を紹介するのならば非常に理解しやすい。
しかしそのあたりの事情ははきわめてあいまいなままである。朝日新聞は、「正義」に依存して攻撃性を発揮してきた側だろう。それが、しらーっと、自分が攻撃されて圧迫を感じた被害者の側、その状況に感度高く気づいて距離を取った星野氏のポジションに、自分たちがいるかのように振るまっている。ずるいというか、無責任というか、良いとこ取りではないのか、と思う。

①と関連させてよく読むと、星野氏の主張自身にも賛同できない部分がある。氏はこの原稿の結論の部分で、互いに攻撃性を発揮し合い、言葉が消費されるような状況では「文学の言葉を吐くしかない」と述べているし、これについては「究極の個人語」だから、他人に通じるかどうかも分からないと述べ、ある種の社会的にひきこもる態度の優位性を述べている。
しかし、文学の言葉だけにそのような特権性を認める根拠などはどこにもない。相手に拒否され無視されるかもしれないが、私はそれでも新しい社会的なつながりが創られることを望んで、自分の使える言葉、精神医学や精神分析、他の学問的な用語を用いて語ることを選びたい。

星野氏の文章では、依存やナショナリズムという言葉が、文学的には適切なのだろうが、学問的には正確に用いられていない。
日本や正義に依存するのは悪いことではない。誰でも、特に日本人ならば、日本にも正義にも依存するべきだ。問題は、一つの要素だけに過剰に依存し、他の要素を無視するようになってしまうことだ。ある人の頭の中で「日本」だけが重要になって「正義」がどうでもよくなったり、「正義」だけが重要で「日本」はどうなってもよい、そういう思考や行動ばかりが優勢になる事態を避けなければならない。「日本」と「正義」が矛盾する場合に葛藤し、自らの決断を積み重ねていくのは、とても人間らしい姿だと思う。

エマニュエル・トッドが日本の状況について行った、「現在の日本には、国家を強大なものにしたいという意志を感じない」ので、「ナショナリズムという用語よりもナルシシズムという用語の方が適切だろう」という指摘に私は賛同する。
「日本人のナルシシズム」とは何か?E・トッドの言葉から考える(大野 舞) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) (gendai.media)
むしろ、健全なナショナリズムが不足していることが問題なのかもしれない。トッドの説明にしたがえば、人口減少の日本で国家を維持するために、いかにして移民の受け入れを良好に進めるのかが議論されるようになるのが自然である。もちろんそこには葛藤やマイナス面があるだろう。しかし国力増強のためには、「労働力の圧倒的な不足」という事態に対応するために決して見過ごせない論点になるはずだ。しかし、星野氏のいうような日本に依存する人々は、他国の人を見下すような言動を示してばかりいる。

日本の大手メディアが、放射線被ばくの直接的な健康被害について、非科学的な喧伝を行ったことに加担したのは、やはり責任を問われるべき事態である。それが福島県産の農作物・海産物に与えた影響が、風評被害として指摘されていることは、多くの人がすでにご存知のことだろう。今回は、それ以外の、日本人の精神性に及ぼした二つの大きな問題を指摘したい。
①日本人一般の、被害者の立場に入れば、科学的な主張を軽視しても良いという感性を強めてしまったこと
➁社会的な不正義を批判するものとしてのリベラルへの信頼を損ねたこと

近代的な社会が機能するためには、信頼できるリベラル勢力が権力を監視し、適切な批判が行われることが絶対的に必要である。したがって、朝日新聞が行うべきなのは、いかにリベラルな批判の正当性と社会からの信頼を回復するかを考えて実践することである。決して、リベラル批判が強まっている社会の空気に乗って星野氏の記事を紹介し、自分たちもその雰囲気の上に乗って、リベラルの信用出来なさを上書きすることではないはずである。

「ゼロベクレル」のような、科学的にありえない無理な要求を行った「リベラル」っぽい言い方が否定される空気が蔓延すると、今度は正当な放射線防護対策までが軽んじられるようになるかもしれない。福島県の事故が起きた原発から近い地域には、まだ放射線被ばくについて注意すべき場所がある。そのような所で、十分な対策がなされないまま、安易なイベント等が開催されているのではないかと危惧する声も存在する。

原発事故に関していえば、国会の事故調査委員会の報告書の内容が非常に重要であるにもかかわらず、それがあまりに軽視されている。
国会事故調 | 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会のホームページ (ndl.go.jp)
この中には次のような記述がある。
「東電は、新たな知見に基づく規制が導入されると、既設炉の稼働率に深刻な影響が生ずるほか、安全性に関する過去の主張を維持できず、訴訟などで不利になるといった恐れを抱いており、それを回避したいという動機から、安全対策の規制化に強く反対し、電気事業連合会(以下「電事連」という)を介して規制当局に働きかけていた。

 このような事業者側の姿勢に対し、本来国民の安全を守る立場から毅然とした対応をすべき規制当局も、専門性において事業者に劣後していたこと、過去に自ら安全と認めた原子力発電所に対する訴訟リスクを回避することを重視したこと、また、保安院が原子力推進官庁である経産省の組織の一部であったこと等から、安全について積極的に制度化していくことに否定的であった。

 事業者が、規制当局を骨抜きにすることに成功する中で、「原発はもともと安全が確保されている」という大前提が共有され、既設炉の安全性、過去の規制の正当性を否定するような意見や知見、それを反映した規制、指針の施行が回避、緩和、先送りされるように落としどころを探り合っていた。」(引用終わり)

このような電気事業者と規制当局のような、本来は緊張感を持って対立し合わなければならない関係にある組織同士が、ズルズルベッタリの関係性に陥って規制等を講じた本来の目的が見失われるにいたる、日本の社会構造と日本人の心理構造が問題にされ、それへの対策が追究されるべきだったのだ。

原発事故は悲惨な経験であったが、それを機に日本社会を良い方向に変化させたいという日本人の中の熱情も本物だったと思う。それを、放射線被ばくの影響をめぐる部分的なやり取りばかりに集約させ、全体的な構造の問題を論点とさせなかった大手のマスコミの責任は、小さなものではない。

そのような議論が起こる可能性があるタイミングで、朝日新聞からの今回のような記事の発表があった。
自分が優位な時には相手のことを激しく批判し、自分が不利な状況では「他人を傷つけるような言い方をする人は徳が劣る」という道徳的な空気をつくってそれを回避しようとするのは、日本の権威が保身に用いる代表的な手法の一つである。今回朝日新聞が行った星野氏の記事の掲載はそのような日本的権威が用いる手段の、一つの実践例のように見える。このことから連想するのは、戦前・戦中に大政翼賛にどっぷりまい進していた大新聞が、敗戦による外部環境の変化で、ころっと自分たちこそ戦後民主主義の代表であるかのような語り方に変わった無責任さだ。
ズルズルベッタリの関係性を美化するナルシシズムを逃れるために、私はこの朝日新聞の行為を批判したいと思う。朝日新聞は日本のリベラルのあり方に模範を示しそれをリードしてきた存在である。大きな影響力を持つ権威ある組織が、それだけ多くの責任を果たすことを期待されるのは自然なことだ。今回のような姑息な手段ではなく、これからは毅然とした行動で日本のリベラルを導いてほしい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?