『民主主義の内なる敵』読書ノート2

前回は第1-3章をまとめた。

民主主義という理念それ自体に本質的に属する危険は、その構成要素の一つを切り離して考え、もっぱらそれのみを優遇することからやって来る。(略)人民、自由、進歩は、民主主義の構成要素である。しかしそれらのうちの一つが、それ以外のものとの関係から解放されるならば、このようにしていっさいの限定の試みから逃れ、唯一の原理に格上げされるならば、それれは危険へと変化する。ポピュリズム、ウルトラ自由主義、メシア信仰、つまり民主主義の内なる敵である。」

第3章が政治的なメシア信仰ー「進歩」の要素の過大評価について記載で、フランス革命の後半、共産主義、イラク戦争、アフガニスタン、リビアなどが取り扱われた。

ちょっとした疑問があり、第2章でペラギウス対アウグスティヌスという対照が導入されたものの、その後の本書の記載に十分に生かされていない印象を持った。

さて、第4章「個人の専横」と第5章「新自由主義の結果」が、自由の要素の過大評価、第5章の「ポピュリズムと外国人嫌い」が人民の要素の過大評価について記載されているのですが、それぞれのトピックについての記述(多分、この本を書く前から、著者があちこちで書いたものかもしれない)が、バラバラと書かれていて、統一感はうすい。

第4章には、結構経済のことが出てきて、たとえば「莫大な資本を自由にできる個人、あるいは個人のグループが握っている行き過ぎた経済的権力に直面して、政治的権力はしばしば過度に無力であることが明らかになる」「ウルトラ自由主義が、起業し、商売し、自己の資本を管理する無制限の自由をみずからに要求することを正当化するのは、エゴイズムへの権利を擁護することによってではなく、まさしくこの自由が社会全体を豊かにするもっとも効果的な方法であると主張することによってである。それが対立するのは、公的権力の側からのいっさいの規制措置である」などの記載が印象的。「共産主義と新自由主義とのひそかな類似性は、<壁>崩壊の直後に、東欧諸国に新しいイデオロギーが古いイデオロギーの代わりに驚くべき容易さで根づいたことをよりよく理解することを可能にする」という記載もある。
このような風潮への著者の反論は、「関係性」や「愛着」をめぐるものである。「新自由主義の教義のベースに見出される人間のイメージとは逆に、人間は自己の意志の産物ではなく、つねに、そして唯一、人間がそのなかで誕生する家庭的で社会的な環境から構成される。この現実のもっともはっきりした例が、各個人に先行する言語の例である」という内容だろう。
「執着は、惜しむべき態度であるどころか、人間の条件に本質的に属している。」ルソー「愛着はすべて、自足できないというしるしだ。私たちの一人一人が他の人間をまったく必要としないなら、他の人間と結びつこうなどとはけっして考えまい」しかし私たちはかくのごとしである。
その上で、「神との特権的な関係をもはや当てにしない世界において、このように愛着を強調することは、だからといって、子供時代以降、個人に強いられているすべての絆を受動的に受け入れ、そのうえ、称賛さエしなければならないことをも意味しない。家族、クラン、民族、人権…との連帯を義務的なものにしなければならないことをも意味しない。もっとも貴重な関係は、ーと、すでにモンテーニュは述べていたー「われわれの選択や意志の自由」に依存する関係である。しかし、成熟した生活の理想が、全面的な「自立」、つまり神に対してのみならず、人間に対するいっさいの義務といっさいの執着の不在であるなどと、いかにして想像することができたのだろうか。そういうわけで、無制限の自由は、人間の実存の理想とはなりえないだろうーそれが人間の実存の出発点でもないように。」

第5章 新自由主義の結果には、結構日本のことがでてきていた。核の話題に触れられるので、福島県での原発事故について、「啓蒙主義時代以降、人類の大半が採り入れたペラギウス主義的態度が含んでいるリスクの一例であった」と記載されるなど。「意味の喪失」として自殺について扱われる。「マネジメントの技術」としての批判的な記載。「職務の解体」「結果の客観性」「精神のプログラミング」「ヒエラルキーの隠ぺい」などについて。「精神のプログラミング」に、トヨタのことが出てきます。「『テーラーリズムの図式を特徴づける行為の規格化を継承するのは、人格の規格化である』ということもできる。日本の自動車工場の名からときにトヨティズムと呼ばれるのがこれである。もし人格を初期化したりプログラミングしたりすることに成功すれば、つづいて彼らの動作の一つ一つを気にする必要はない。標的にされるのはもはや行動ではなく、彼らの脳であるー脳は彼らのすべての行動を管理することができるだろう。その結果、個々の従業員はいっそう完全な契約を求められるー彼の精神の契約で、肉体の契約ではない」
「法の領域の弱体化、労働の世界における意味の喪失、存在の非人間化」「これらの変化は、目的ー存在の開花、意味と美しさに富んだ生活ーの忘却、および手段ー繫栄する経済の神聖化によって特徴づけられる世界においては、また企業を唯一、証券取引の価値に還元する世界においては、論理的である。」
さらに、マスメディアの問題が取り上げられる。(また荒木経惟の写真展がベルギーで開催されて混乱があった事情が触れられる)筆者は、表現の自由の行き過ぎには批判的。「表現の自由はたしかに民主主義の価値観のなかにその場をもっている。だがどうしてこれを民主的価値観の土台とすることができるのかは、よくわからない」
「バークがよく知っていたように、言葉やその他の表現形態は、社会が同意する他の価値ゆえに強制されるさまざまな制約をこうむる。表現の自由の絶対的性格にかんするこれらの留保を重んじるならば、もう一方の極端に行き、法が、あるいは公権力が、すべてを統制することを要求せざるをえないのだろうか。放縦なカオスと教条主義的な秩序のあいだで選ぶことを強いられるのだろうか。私はそうは思わない。問題なのはむしろ、表現の自由はつねに相対的であることを肯定することであるー状況に対して、自己表現の仕方に対して、自己表現をする者と彼の発言が記述する者のアイデンティティに対してである。自由の要求はコンテクストにおいてのみその意味を獲得するーところで、コンテクストは著しく変化する」
「すでに古代において存在していたデマゴギーの脅威は、マスメディアー新聞、ラジオ、テレビ、現在ではインターネットーの偏在のおかげで現代においては激化させられている。言葉やイメージを巧みに操ることによって自分を押しつけようとする欲動は、この遠い時代から変わっていないが、そのために使用される道具は今日、比べものにならないほど強力である」「無制限な表現の自由の擁護者は、権力者と無力な者との区別というこの基本的な区別を知らない。」
この章の結びは、「すべてか無かという不毛な二者択一から抜け出す時が来たのである」となっている。

第6章は、冒頭近くの次の言葉がわかりやすい。「最近の数十年を通じて、ヨーロッパに新しい政治的現象を観察することができる。ポピュリズムの政党の台頭である。政治的風景の変化は冷戦の終わりから加速した。あたかも一国の政治生活が引き立て役の反対者を必要とし、ライバルである共産主義が消え去ったのち、人々が自分たちの恐怖、不安、また拒否を他の何らかの集団に注がなければならないかのようである。それは外国人、とりわけ彼らがイスラム教徒であるならばである。」
「政治的領域の伝統的区分に比較すれば、ポピュリズムは左派だとも右派だともいえない。そのスポークスマンによれば、ポピュリズムはむしろ「下に」属している。伝統的な政党は左派も右派も、魅力のない「上へと」排斥されているのである。ポピュリズムはエリート主義に対立するだろうーこの最後の用語に軽蔑的な色合いをもたせるならば、である」
結論はものすごく常識的・古典的。「過去と現在の偉大な宗教は個人に対して、歓待することを、飢えた者、乾いた者を助け、隣人を愛することを推奨している。このような推奨は国家に対して行うことはできない。それでもなお、国家の指導者が外国人嫌いのような原始的な政治的情熱をちやほやすることを控えねばならないことに変わりはない。」

第7章 民主主義の将来では、結論が語られる。
「民主主義はその行き過ぎによって病んでいる。そこでは自由は暴政と化し、人民は操作可能な群衆へと姿を変える。進歩を促進しようとする欲望は、十字軍の精神に変化する。経済、国家、法は万人の開花のための手段であることをやめ、いまや非人間化のプロセスの性質を帯びている。日によっては、このプロセスは不可逆的であると私には思われる。それでも民主主義国で生活することは、全体主義国家、軍事独裁、あるいは反啓蒙主義の封建体制における服従よりも好ましいことに変わりはない。だが、このようにして民主主義自体によって生み出された内なる敵にむしばまれた民主主義は、もはやその約束の高さにはない。これらの敵は民主主義を外部から攻撃した過去の敵よりも怖くない外観をもっている。プロレタリア独裁を樹立しようともくろみはしないし、軍事クーデタの準備もしない。情け容赦ない神の名において自爆テロをおこなうこともない。民主主義の衣装をまとっており、それゆえ気づかれぬまま通り過ぎることができる。それでも、これらの敵は真実の危険をはらんでいる。これに対していかなる抵抗も対置しなければ、これらの敵はしまいには、いつの日がこの政治体制からその実質を排除することになるだろう。それら人間の自己喪失と人間生活の非人間化へとみちびくのである。」
「私たちの内部に敵を発見することは、敵が私たちから遠くにあり、まったく異なっていると考えることよりもずっと憂慮すべきことである。民主主義は、ナチあるいは共産主義という醜悪な敵をもっているあいだは、その内なる脅威を知らぬままに生きることが可能であった。今日、民主主義はこれらの脅威に立ち向かわなければならないのである。民主主義がそれらを乗り越える可能性とはいかなるものであろうか」と問うた後で、著者は、以下のようなものを否定する。「国民議会の命令」「バスティーユの奪取」「いかなる技術」「あきらめ、シニズム、虚無主義」
エコロジーに着目「もはや国家という舞台ではなく世界という舞台に目をやれば、自然のエコロジーの教訓は、あらためて社会的エコロジーの教訓によって補完されなければならない」

本著では、具体的な民主主義再生への提言は行われない。「本質的に長い多元主義の実践に還元される」ヨーロッパへの期待は語られている。
ヨーロッパだけでもダメとも書かれる。
この本の結びは「歴史は不動の法則に従ってはいない。神が私たちの運命を決めるのではなく、将来は人間の意思次第なのである」

適切な主張で、よく読んで考えたい。
マイナスの要因でばかり(本書のコンテキストで)日本が言及されるのは、感じよくない。


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