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Kill City: Iggy Pop & James Williamson


音楽的には『Raw Power』 (Wikipedia)の続編。
というか、「ジェームズ・ウィリアムソンが仕切った『Kill City』は『Raw Power』に似てるから、どっちもウィリアムソンが仕切ってたんだろう」という認識の根拠として扱われる作品でもあった。
「Raw Powerのバックトラック制作はイギー承認の下でウィリアムソンが仕切っていた」というのは映画「ギミーデンジャー 」で今や周知の事実だが、それまではイギーも含めてそこまではっきり言っていなかったしね。

ウィリアムソンは『Raw Power』でパンクロックを発明してしまったので飛び道具的なタレントの持ち主みたいなイメージもあるが、彼のオーセンティックなセンスがあってこそ「ロックンロールの再発明→パンクロックの発明」が可能になったということは、この作品を聴くと分かる。
ただ、「これはウィリアムソンのセンスでした」とは、この作品から40年後の『Behind The Shade』を聴くまで個人的には言い切れないところもあったけどね。

このアルバムはストゥージズがイギーの自己破壊的な振る舞いや、ローディも含めた関係者間のドラッグ禍で混乱しているところに、最後の一撃としてコロムビアから契約を解除されて商業的にも見通しが立たなくなって空中分解(1974年)した後に、ウィリアムソンが自身とイギーという2人の音楽キャリア存続をかけて作ったデモテープが元になっている。
制作時のイギーは薬物依存から脱却するためにサナトリウムに入所して療養生活を送っていて、作詞と歌入れはしたものの、全体的な制作はウィリアムソンに一任せざるを得なかった。
ちなみにWIkiでは「ジョン・ケイルにプロデュースを頼んだ」と書いてあるが、意外にもこれは本当で、頼んだけど断られたとラジオNIKKEIのインタビューでウィリアムソン自身が答えている。(自分の質問、まさか採用されるとは思わなかった)
しかし、出来上がったデモテープには残念ながらどのレーベルも興味を示さずにそのままお蔵入りしてしまう。これが1975年の出来事。

ところが廃人状態だったイギーがデヴィッド・ボウイに拾われて健康を取り戻し、ソロ作品『The Idiot』と『Lust for Life』を成功させるや、その成功にあやかろうとしてお蔵入り音源を探していたインディーレーベル・ボンプ!の目に留まり、晴れて1977年にリリースされることになった…、というのは今更書かなくても良いくらい著名なエピソード。
その頃のウィリアムソンはIT業界入りを目指して大学に通っており(最初は音楽プロデュースとITを専攻していたらしいが、途中からIT一本になった)、既に音楽業界から半分足を洗いかけてはいたものの、学費の捻出には苦労していたのでボンプ!の申し出に応じたという。
つまり、制作に関してもリリースに関してもイギーはほとんど関わっていない。

そんな経緯があるからか、そもそも制作時期にロクな思い出がないせいか、イギーは『Kill City』に関しては案外冷淡で「ウィリアムソンが作って俺は歌入れしただけ」「ポップにしすぎ。ウィリアムソンは少しでも売りたかったんだろう」なんて発言をしている。

そうは言っても、この作品、イギーが担当した歌詞も彼のキャリアのターニングポイントとも言えるものとなっている。どういう点が?と言うと『The Idiot』や『Lust for Life』で見せることになる「客観的な視点でストーリーを語る」手法が初めて顕在化しているという点。
ストゥージズ時代の歌詞はイギーが自分の思いを吐き出しているのか、モデルがいてその人物に主張させているのか曖昧なところがあったが、『Kill City』では初めて「これは自分の経験を参考にした物語です」ということが第三者にも明示された格好になっている。つまり、歌詞中で名乗りこそしないものの、ジョニー・イェン(「Lust for Life」の登場人物)が一足先にお出ましになっているわけ。

大まかな内容はバットマンのゴッサムシティよろしく犯罪まみれの都市に住む、しけた裏稼業で糊口を凌ぐ男の話。それに彼と同様に法律の外(Beyond the Law)に住む人々のエピソードが絡む。その男はデヴィッド・ボウイかミック・ジャガーのようなクールな存在になりたかったと告白しつつ死ぬか発狂して(Lucky Monkey)物語は終わり、インスト曲「Master Charge」が流れて「それでも朝は来る」と言った感じのクールな幕引きで余韻を残す。



ヒューバート・セルビーの「ブルックリン最終出口」か、イギーがファンと公言するウイリアム・S・バロウズの「ジャンキー」を思わせる内容なんだが、ひとつ歯がゆいのがこれが意識的にそうなったのか、たまたまそういう歌が揃っただけなのか、というのが不明な点。
前述のように、イギーはこの作品に対して結構冷淡であんまり語ってくれないため、そういうコンセプトが念頭にあったのかは不明。ウィリアムソンは歌詞については担当外なので特に何も語っていない。

個人的な所見では、イギーが当時の自身にとって身近な環境をそのまま歌詞にしたので一貫した内容になり、これを読んだウィリアムソンが、途中とラストに場面転換的なインスト曲(Night Theme/Master Charge)を入れてノワール映画的なストーリー仕立てにしたんじゃないかと思う。

リアルな「犯罪都市」を扱ったノワール物語なアルバムってどっかで聞いたな。
カーティス・メイフィールドの『Super Fly』か。

あっちはノワール映画のサントラだからああ仕上がって当然と言えば当然。だから『Kill City』は架空のノワール映画のサントラのような仕上がりとも言える。以下はフォロワーさんのツイート。


イギーが意識したかしないかは別にして、彼が音楽キャリア初期に憧れて参入を目指したシカゴ・ブルース界の大立者に似たアルバムを作ったというのも、ストゥージズの解散と併せて彼のキャリアの円環がこの時期に一旦閉じた感じで興味深い。
こうして音楽キャリア初期に影響を受けた素材を吐き出し切ったから、ボウイとのベルリン時代に白紙で臨めることになったのかも。

更に言えばベルリン時代に顕在化した自然主義文学的な歌詞のプロトタイプもここにあるわけで、リスタートの準備もこの時期に始まっていたとも言える。

インディーレーベルからの発売でもあったことから、このアルバムは特に商業的に成功したわけじゃないが、イギリスではNMEで高い評価を得て、ウィリアムソンによれば「じゃあ、新作『New Values』のプロデューサーは彼にする」とイギーが決心するきっかけになったという。
イギリス人はカーティスが妙に好きなので、「白人が作ったロックンロール版『Super Fly』」とも言える『Kill City』が彼らの琴線に触れたのも当然と言えば当然なのかもしれない。

ちょっと不思議なのは、イギーは『Raw Power』は当然として、リリース順に行くと『Kill City』に続く『New Values』も気に入っているうえ、同じベルリン作品でもボウイからイギー自身に製作の主導権が移った『Lust for Life』が、宅録感とアンビエント色の強い『The Idiot』から一転して鮮やかなロックンロール調に振られていることからも、オーセンティックでキャッチーなロックンロール作品『Kill City』を気に入っていておかしくない。
それでもちょっと冷淡に扱っているのは「あれは俺じゃなくてウィリアムソンの作品」という線引きが何処かにあるからなんだろうか。それとも「第三者的な視点で書いた物語調になっているのはウィリアムソンがそういう構成にしたから。自分はそんなつもりじゃなかった」ということなのか。一度聞いてみたい気もするが、「今更なんだ」って怒るかな。

ところでこの作品、イギーのスタジオアルバムの中でも結構名高いが、日本盤が出たことがない。
ここはひとつセンスのある方の歌詞対訳を付けた日本盤をいい加減出して欲しいところ。
そのためにはやっぱり来日がいいきっかけになるな。


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