日記②

ものすごく面倒だけどなんとか2記事目の日記に進めた。

2周目に突入したFFのレベル上げを早くやりたいが、さすがに三日坊主と張り合えるくらいの人間にはなりたかった。

しかし書きたくもないnoteともなると予想通りの問題が発生する。

書くことがない。全くない。

しかも日記は大抵今日あった出来事を書くことだろう。私は今日何も起こっていない。

オッドタクシーを一気見してゲームをして鍋を作ったくらいだ。

そんな文は読み手どころか、書き手ですらつまらない。地図帳の方が面白い。

何を書けばいいのかイマイチわからないが、今日そういえば怒ることが減ったと感じた。

今日PCRを受ける関係で保健所の人と電話をしていたのだが、そのコールセンターの方の対応が凄く雑だった。

確かに私はお客様とかではないが、私がもし雑な対応にへそを曲げてPCRを受けずに外出をしまくり陽性だった場合、その人の雑な対応のせいで死人が出るかもしれない。

そんな事は考えないのだろうか。

そもそも何となく「他人」って丁寧に接するものだろう。他人と会話していて違和感があった場合、まず自分の不手際を疑うものだろう。

自分の知識やマナーに自信が無い私は、赤の他人と接する時はそうなってしまう。だからコールセンターの高圧的なおばさんが理解できなかった。

昔だったらここで怒っていた。

もちろん本人に怒鳴りつけるほどの勇気も無礼さも私にはないので、「なんなんアイツ」と後で陰湿にTwitterで呟いていた。

しかし今は「なんなんアイツ」という怒りが湧いてこない。

文字にすると似ているが、「なんだろうあの人」くらいに疑問に思い、その人がなぜその行動をしたのか考えるくらいになった。

これは成長ではない、退化だ。

怒りというのは重要な感情だと思う。原動力にもなるし、怒りをどこかにぶつける事でストレスの解消にもなる。

ネタなど何かコンテンツを作る場合は、自分の怒りが直結することも多くある。

思えば小さいことに一々怒っていた高校時代は、それだけで笑ってもらえていた気がする。

今はお笑いに多く触れ、どんなワード、どんな間で物を言うと人が笑うかが、拙いレベルだが高校時代よりはわかってきたはずだ。

しかし当時はそんな小手先の手法ではなく、ただ自分が腹が立っていることを発表するだけで人が笑っていた。

何も面白くはない。きっと文字にしたらただの愚痴だ。周りの友人はきっと、私が怒っている熱量に笑っていたのだ。

「なんでこんなしょうもないことに怒っているんだろう」

「気持ちはわかるがそこまで怒ることなのか」

などときっと思いながら、顔を真っ赤にして熱弁する私を笑っていた。

怒りというものはやはりとても大切な感情だ。

無ければコミュニケーションは円滑にとれるため大人になるにつれて皆捨ててしまう。

しかし自分を奮起し、ストレスを逃がし、人を笑わせる「怒り」を私は捨てたくない。

私はクソ無職のまだまだ子供なんだから、大人ぶって我慢せずに怒り散らせばいい。

まだ芸人を少しでも志しているうちは、怒るようにしよう。

コールセンターの失礼おばさんも、大人なのにTikTok見てる奴も、宗教みたいなベンチャー企業も、クリエイティブって言葉を使いたがる奴も、広告代理店に勤めてるだけでイキってるバカも、慶應大学も、みんな知ってる曲みたいな顔してカラオケでボカロ歌うヤツも、会社員ってことを忘れてるアナウンサーも、面白い面白くないの尺度を自分で決めたがる面白くない関西人も、なんも言わずに最後の1個食うやつも、しょっちゅうシーシャ吸うやつも、全部許さなくていい。

せめてネタとnoteを書く時くらいは、もっと子供っぽくなりたい。

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