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北方文化博物館

 新潟市江南区沢海にある、北方文化博物館。この建物は、八代にわたる伊藤家の遺構である。邸内を飾る佳品は、歴代当主のコレクションをはじめ、戦後の私立博物館第一号となることを契機に七代・八代当主が高い志を持って蒐集してきたもの。日本を中心に、中国・韓国の美術品など資料総数は約六千点にも及び、一部が展示されている。この「豪農の館」は何なのか、現地を訪ねて話しを伺ってきた。

1.戦後の農地改革を契機に、博物館に
 地主が小作人を雇って田んぼを耕させていたが、昭和20年に終戦を迎えてから、アメリカが日本を新しく作り上げようとしていた。その際、政府は一個人が多くの土地と人を抱えている権力者たちが政府の政策の妨げをする恐れがあるかもしれないと思い、地主や財団を農地改革により解散させようとした。伊藤家もこの政策(農地改革)により、小作人を開放することとなった。この小作人を解放させた人物は、アメリカ軍GHQである最高司令官マッカサーである。また、解体した農地は小作人自身の土地となり、自ら土地を耕して採れた収穫物は小作人自らのものとなった。

2.財団化して設立したまでの過程
 農地改革により、小作人を解放するとともに伊藤家の建物はアメリカ軍が所有する施設になるかもしれないという状態にあった。当時7代目の当主は博物館として伊藤家の建物を残そうと考えていた。しかし、アメリカ軍は伊藤家を軍用アパートにする計画をすすめていた。それとは別で、伊藤家に政府の隠匿物資が隠されているのではないかという疑いがかけられ、アメリカ軍が調査にやってきた。この時、偶然伊藤家に調査をしに来ていたライト中尉は、アメリカの大学が同じ先輩、後輩という関係が分かり、意気投合し日本の文化を残そうという7代目当主の思いを受け、アメリカ軍に進言をしたことで、伊藤家を残すための財団をライト中尉と7代目当主が立ち上げ、北方博物館として伊藤家を残すこととなった。

3.インタビュー内容(写真がすべて入りきらないため別途で記載)
伊藤家の見所
観光ガイド・鈴木さん

北方文化博物館の魅力
学芸員・田中茉利奈さん
質問1:県外からや外国からのお客さんはどれくらい来られるのか?
 多くのお客さんが来られている。近年ではアジアからのお客さんが増えており、特に台湾や韓国、中国からのお客さんが増えている。理由としては、新潟空港と台湾や韓国、中国などの各地を結ぶ飛行機がたくさん運航するようになったから。
 今後も外国からのお客さんを増やしていくためにも活動を行っている。内容としては、外国の方でも東京や大阪、京都などの有名なところへは行ったことがあるけれど、まだ行ったことのない日本の地域へ行ってみたいという方が新潟にこれから来ることを予想しているため、海外の旅行業者のところへ行き、新潟の北方文化博物館の魅力を伝えるなどといった活動を行っている。

質問2:季節ごとでイベントを行うが、お客さんを呼び込む活動などは行っているのか?
 博物館には営業担当のスタッフがいて、博物館にお客様を連れてきてくださる旅行業者の方に3ヶ月前、あるいは半年くらい前に、次のシーズンの見所などをご紹介し、その内容をお客様に発信していくという活動を行っている。

質問3:四季の中でいちばんお客さんが来る頃
 5月。この時期は藤の花が咲く頃であり、博物館の「藤棚」が有名なので、これを見に繰るお客様が多い。ゴールデンウィークは年間を通してもいちばんお客様が込み合う時期。5月だと1日でいちばん多い頃だと3,000人ほどのお客様が来られる。一方で、いちばんお客様が少ない時期は、冬のクリスマス頃が特に少ない。1日の来場者が1桁という日もある。

質問4:の花は博物館が建てられた頃からあるのか?
 約50年前に藤の木が博物館に移された。この当時は、昨年亡くなられた官長の父親が移したと言われている。樹齢は150年くらいの樹である。

質問5:非公開の場所はなぜ非公開になっているのか?
 古くて傷んでいたりなど、見せる環境が整っていなかったり、お客様が入られるスペースがないなど。また、伊藤家からして貴重すぎるものなどは非公開にしてある。

質問6:北方文化博物館の将来的な発展はなにか考えているのか?
 地域の方だけではなくて、世界中の人に博物館に来てもらいたいと思っていて、それは、地主という制度や文化や、米どころ新潟ならではの特徴的な制度、日本らしい、新潟らしい文化が博物館には生々しく残っているので、そういったものから世界中の方に感動を与え、自分たちそれぞれの生き方の参考にできるということを確信しているので、大事に保存・管理しつつ世の中の人に役になるという形で、どんどん提供していきたいと思うし、このような価値を生み出した方からの入館料で博物館の修復や維持費等にあてて、うまい循環をつくって残していかなければならないので、きちんと経済活動を行いながら世界中の人たちに、日本の新潟を代表する施設として発信していきたいと思っている。

4.まとめ
 伊藤家の遺構である北方文化博物館の農地改革の経緯は終戦後、政府の政策が強い権力者たちから妨げを受けると考え、地主や財団を解放することにし、小作人を雇わず、解体した農地は小作人自身の土地となった。財団化して設立したまでの過程は、農地改革により伊藤家の建物はアメリカ軍の所有物になる状態にあったため、7代目の当主は博物館として伊藤家の建物を残そうと考えており、そこで偶然、調査のため来日していたライト中尉と意気投合したことでライト中尉が日本の建物を残すべきだということをアメリカ軍に進言するため仲介役をし、北方博物館として伊藤家を残すこととなった。

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