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細切れの無価値なコミュニケーションを大事にしたい

コンビニで買い物をしたあと、レジの店員に「ありがとう」と言うかどうかネットで議論が進んだりするのを見たことがある。

商品と代金の交換が済めばそれで終わり。というのはまあその通りだ。だから別に「ありがとう」を言う必要はないと思う。
接客対応をしてくれてありがとうかもしれないし、たかがコンビニで買い物をしただけなのに丁寧さの過剰包装で応じてくれたり。せめてものリアクションでありがとうと言うのも悪くはないと思う。

私はコンビニに限らず、レストランでフロア対応やレジ対応をしてくれた人、カウンターの店員さんには「ありがとう」というタイプの人間だ。
もちろん感謝の意味もある。接客のバイトをしてきたから言ってもらえると嬉しいことを知っているから。そしてどちらかというとこちらの理由が大きいのだけど、これはコミュニケーションとしての「ありがとう」だ。

コミュニケーションは言葉だけじゃない。商品を買うということ。料理を作ってもらい、運んでもらい、食べるということ。カクテルを作ってくれること。本にカバーをかけてもらうこと。お店でやるやりとり自体がコミュニケーションで、それに満足して終えるクロージングの言葉に「ありがとう」を言う。そんな感じだ。

いま、コミュニケーションという言葉には何かを得られるというイメージが強く結び付けられているように思う。

高いコミュニケーション能力でもって仕事を回す。
コミュニケーションツールを駆使して人脈を広げる。

何かを得られるスキルや行為であり、それをする以上何かを得るべきである価値ある営為。
というと言い過ぎかもしれない。けどそれくらい価値あることのように見られてる気がする。

コミュニケーションってそんな高尚なものだっただろうか。
そんな利益創造に直結した行為だったかな。

私はよく使うコンビニで、スーパーでありがとうと言う。旅先でとりあえず入った、もう行くことのないだろうレストランでも、美味しかったら美味しかったですと言う。
お互いのちょっと嬉しい気持ち、それ以外は何も生み出さない。でもこれって大切だなと最近再確認してる。

これからの社会論を上手く振りかざせないんだけど、これからの時代、長続きして価値や利益を生むコミュニケーション以外に意味はない、なんて考えではつらいと思う。

AIがとか脅威は色々あるけど、どれがぐわっと来てもその時に問われるのは「人だから」できることじゃないか。
その中でもコミュニケーションは大きなテーマであり続けると思う。それでも、価値創造に直結するやりとりはAIでもできるだろう。そんな中で、すぐには利益を生まないけどお互いの気持ちを少し嬉しくするようなやりとりをできるのは、きっと人のほかにない。

細切れで先のつながりを確約しない、価値に直結しないコミュニケーションの数々。
結局利益追及に言及しちゃうけど、それが結果としてその人の姿勢だったり形作り、巡り巡って何かを生み出すんじゃないかって思う。

まあ、お礼リプにお礼メールにお礼状と畳み掛けられても困るから塩梅が難しいんだけど。

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