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火曜日の夜 電車で人が倒れた

帰りの電車でのことだった。駅に停車中の車内で、その人は降りようとしたらしい。
彼女が倒れる場面を私は見ていないが、あとで見ていた人が駅員に話していた様子だと、ふらついていたという。

そのとき私は車内に立っていた。スマホでニュースを見ていたところ、鈍い音が響いた。音のしたほうを見ると、女性が倒れていたのだ。

彼女の真横にいた男性と、先にホームに降りていた女性がいち早く駆け寄る。それに続いて私も駆け寄っていた。
その時の一瞬だけだが、彼女は意識が朦朧としていた。女性が声をかける。
男性は倒れて無理な体勢になった体をホームにおろそうとしていた。

私は駆け寄ったものの、はじめその様子をただ眺め立ち尽くしていた。それは多分一瞬で、すぐ男性とともに彼女の体をホームにおろし、車掌に救護者がいることを両手をあげて伝えた。
車掌はこちらに手をあげて無線で駅員を呼ぶ。

そのあと倒れた女性は呼び掛けに反応を見せた。すぐに駅員と車掌も来て、5人で彼女を支えてベンチに掛けさせる。散乱した荷物を集めてそばに置く。
女性は他人のようだったが彼女に付き添い横に腰掛けていた。具合はどうかなど、対応は駅員が行う。

車掌は私たちに礼を言うと車掌室に戻る。私と男性は倒れた女性と救護した女性に声をかけ、車両に戻る。

そして電車は出発。車掌は遅れたことを乗客に詫びるアナウンスをした。私は次の駅で電車を降り、男性はまだ乗ったままだったが、私たちは一瞬目を合わせたが声を掛けることなく別れた。


つまりは体調が悪く倒れた女性を乗り合わせた乗客3人が救護し、駅員と車掌が対応した。
それだけのことだ。

私はこのちょっとした出来事で思うことがあった。
すぐわかるだろうが、困っている他人に手を差し伸べることについてだ。

私は救護活動の知識をほとんど何も知らない。それに彼女は他人だし、下車駅ではない。寒いし、仕事帰りで疲れていた。それでも、ヤバい事態に体が動いた。
自発的に助けなきゃ!と意思をはたらかせた感じではなくて、動けたと言った方が正しい。

理由ははっきり持っていないけど、要するに「困っている人に手を差し伸べる」を実践しただけだった。

これをできたことは、恥ずかしながら自分としては大きな変化だったりする。
女性が倒れても、私たち3人以外は座席に座ったまま、せいぜい身を乗り出して様子を見ているだけだった。
ちょっとそれを咎めたい気持ちにもなったけど、すぐその気持ちも引いていった。今まで今回のような場面に出くわしても、十中八九私も彼らと同じように眺めているだけだったのだから。

それでもせめて、声をかけるくらいはできるようになりたいと、こんな場面に遭遇するたびに思っては消えていく、そんな状態から一歩踏み出せた、というような感覚はあった。


これまでの私もそうだけど、女性が倒れても立ち上がりもしない。それは「余計なことはしない」ということなのか、「他人は他人」が行くとこまで行ってしまっているのかはよくわからないけど、とても寂しいことだと思う。

前にどこかでこういう話をしたとき、「そういう出来事を人に話しちゃうってことはさ、自分は誰かを助けたヒーローみたいに思ってるわけでしょ」と言われたことがある。

その気持ちもわからなくはないけどそうはならない。
とてもヒーローになれる、よっしゃチャンスだ!とは思わないし、思えない。倫理的とかきれいなことではなくて、ただ事態を飲み込んで動くのに必死だからだ。

お礼を言われたりなんなりしたらあとあと英雄気分になれるのかもしれない。そんな英雄気分も別に悪くはないと思うし、今回あったのは車窓に流れていく辛そうな女性と介抱する人たちの姿、そして何事もなく、むしろ遅れてうんざり感が漂う車内の空気だ。
私には英雄とは程遠く、ただ日常に戻る感覚と、3人以外傍観者だったきとへの寂しさがあった。

次々わらわらと集まったらかえって邪魔だったかもしれない。3人もいれば十分と判断したのかもしれない。実際十分ではあった。
それでも、あの間に席すら立たずにただじっと待つ大半の人たち。その光景に少しゾッとした。

だって女の子が倒れたんだぞ。そりゃ、助けるだろ。出だしだけでも。


私は英雄というか、お話の主人公よりもむしろ、変なたとえだけど陽気なモブでいたいと思う。
主人公のちょっとしたピンチの時にたまたま現場に居合わせて、その場にいたみんなでなんやかんやして主人公を助けて、再び敵に立ち向かうべく飛び立つその背中に声援を送る。よく黒人がやってるモブだ。
そういうモブが多い方が、生きやすいと思うのだけど。

そりゃ主人公なら最高。でも陽気なモブでもいいじゃない。

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