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コラム:希望のラ・カンパネラ

依田真門(まこどん)

先月21日、世界的ピアニストのフジコ・ヘミングさんが亡くなられました。92歳だったそうです。彼女が演奏する“ラ・カンパネラ” は、大分前からYouTubeの“お気に入り”に入っていて、仕事の隙間時間などに、時々聞いていました。

彼女がプロのピアニストとして活躍を始めたのは、60代後半に入ってからだそうです。それから90過ぎまで活躍されたそうなので、彼女の人生のピークは、70代、80代だったと言ってよいでしょう。60代半ばの私にとって、誠に勇気づけられる話です。

かなり前のこと、テレビのドキュメンタリーで、彼女のリハーサルシーンを見たことがありました。自分が納得いくまで、何度も何度も繰り返し、自分からオーケストラのメンバーにお願いして、通しの演奏をやり直しているシーンが印象的でした。

スウェーデン人(父)と日本人(母)の間に生まれ、ピアニストだった母親の英才教育を受けて、小さい頃から天才少女と注目されていたそうです。20代前半にバーンスタインの眼に留まり、ウィーンでのデビューコンサートが決定。ところが、コンサート直前に中耳炎をこじらせて耳が聞こえなくなり、音がよく聞こえないまま無理やり断行したところが、案の定、地元紙に酷評されて、ピアニストとしての道が閉ざされてしまいました。その後の約40年間は、ドイツでピアノ教師をして生計を立てていたそうです。

ところが60代後半になって、また人生が拓き始めました。カメラの前で、本人が述懐していましたが、まさか、その年なってから有名になって世界中を演奏して回るなどと思ってもいなかった、と。

普通の人を相手にピアノを教えるだけの仕事なら、一流ピアニストの様な過酷な練習の必要はおそらくなかったでしょう。60代後半になった時点で“世界に認められるレベル”を維持していたということは、その40年余りの間、状況に甘んじることなく、精進し続けたに違いありません。

世界的なピアニスト、とまでは思っていなかったものの、いつかはピアニストとして人前で演奏を、という夢を持ち続けて、自らを磨き続けた。そして新たな道が拓かれた。フジコ・ヘミングさんのそんな生き方に、「希望」の2文字が持つ力を感じます。

ヘミングさん、波乱の人生、お疲れさまでした。どうぞ、安らかに眠ってください。私たちはこれからも、“ラ・カンパネラ”、聴かせて頂きます。

_/_/_/_/ ホープワークニュースレター vol.27_/_/_/_/
<希望の便り from ホープワーク協会>2024.5.10