見出し画像

音の所有者たち

 指先に力を込め、半円形のカムスイッチを捻る。ブウゥゥゥンと長く余韻をひきながら、酸素発生装置は動作を止めた。ポン・ポン・シュー。リズムを刻みながらこの部屋を満たしていた音が消え、耳の底がしんとする。
 午前三時半。この後、何をしたらいいのだろう? ああ、取り敢えず、この子に丁度いい箱を探してこなくちゃ。

 連日の熱帯夜と、介護での寝不足が続いたせいだろう、少し頭が痛い。汗ばんだまま着替えて外に出るには出たが、探すあてなどあろうはずもなく、ただただふらふらと歩きまわる。誰もいない。
 ほんの一時間前まで纏いついていた夜気は、光を浴びて朝の風へと生まれ変わりでもしたのか、軽やかに吹きすぎていく。頬を撫でられれば、芯までぼんやりした頭でも心地よいと感じる。

 この後、どうすればいいんだっけ? 箱はみつからない。頭が痛い。すごく痛い。
 ――今、倒れてなんかいられないんだ。
 駅前の二四時間営業のスーパーで、冷たいスポドリと経口補水液のゼリーを買い求め、体内へ流し込みながら部屋へ戻る。バスタオルを重ね、間に保冷剤を挟んで彼女を横たえる。みんなが動きだすまで添い寝させてね、と自分もしばしまどろむことに決めた。

 九時をまわるのを待って動物病院へ連絡する。酸素発生装置のご返却に伺いたいのですが、と告げると、電話口で一瞬間が空いた。
「ご返却、ということで、よろしいのですね?」
 言葉を選んでくれているのだろう。一語一語、確認するようにゆっくりと、しかしはっきりと、問いが返る。
「はい。三か月、頑張ってくれました。今朝ほど、息をひきとりました」

 動物病院への挨拶、ペットセレモニーの予約、友人への連絡、お花屋さんでの弔花選び……。暑くて長い長い一日だったが、奇跡的にその日のうちに荼毘に付すことができた。
 小さな骨壺を抱えて帰宅する。扉を開けるとき、いつものように「今帰ったよ」と言いそうになる。
 もう、誰もいないのに。
 一年前に茶トラを亡くした。今日は黒猫を。

 茶トラはおしゃべり猫だった。眼が合っても、背中を向けていても、常に話かけてくるような。それに反して黒猫はめったに鳴かない、落ち着いた猫だった。
 そんなふたりは仲がいいんだか悪いんだか、たまには喧嘩もしていた。何かのスイッチが入ったように、突如として始まる夜中の運動会には往生した。ご飯の要求だけは息を合わせふたりで合唱した。
 弾むような足音は、歳を重ねるごとにテンポが落ち、鳴き声も少なくなった。毛繕いの、チャッチャッという熱心な音もいつしか聞こえなくなった。

 茶トラが亡くなり、彼の音が消えた。大人しかった黒猫は、あまあまの甘えん坊になった。隙があれば傍にきて盛大にノドを鳴らして頭をすりつける。子猫のように高い声で、細く長く鳴きながら。

 穏やかに一九歳を迎えた彼女だったが、三か月前に肺に腫瘍が見つかった。それが悪さをするらしく、お腹にガスが溜まり続けていた。この一週間は本当に苦しかったのだろう。口だけは動くけれど、もう声になることはなかった。

 やっとみつけた手頃な箱に彼女を横たえて葬儀に向かう。その前に体を拭いて、身だしなみを整えてあげたくて抱き上げた。にゃーと鳴いた。うん、と返事をしながら、そんなはずはないと狼狽えていた。だってもう、腕の中の彼女はこんなに固い。体が硬直しているのだもの。
 向きを変えるために再び抱くとまた、にゃと鳴いた。彼女の声だ。反射的にうん、と返事をする。
 ――そうか、ガスだ。お腹のガスが彼女の口元から外に出ているんだ。
 彼女を苦しめ続けた憎いガス。彼女の声を奪っていた憎いガスが、私の耳に彼女の最期の声を届けてくれた。

 茶トラの白い骨壺の横に、ピンク色の彼女の骨壺を置いた。遺影を撫でながら自分の唇が零した見知らぬ音を、自分の耳が拾う。

「淋しいな」

 どんな人との別れでも、ついぞ口にしたことのないこの言葉。堪えるも堪えられないもなく、意識の外から唇をつき動かし押し出されたそれは、二つの命が奏でる音が全て消えたこの部屋を彷徨い、あてどもなく漂っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?