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澤田隆治という人〜TVの笑いを作った男(その1 歴史編)

澤田隆治が逝去した。大阪朝日放送でプロデューサー/演出家を務め、「てなもんや三度笠」などの人気番組を手がけ、その後、東阪企画という番組制作会社を設立し、東京に進出する。澤田隆治がいなかったら、日本のお笑いの世界は違うものになっていただろうし、今のお笑い第七世代などというものも存在しなかったかもしれない。

まずは歴史である。歴史というのは、私は直接的に接していないという意味で、小林信彦の「定本 日本の喜劇人」を参考に書く。「てなもんや三度笠」は1962年放送開始であるが、その前年、私の生まれた1961年に「スチャラカ社員」という番組が始まった。両番組とも、香川登志諸脚本、澤田隆治演出である。

近代漫才の始祖というと、エンタツ・アチャコというのが定説だが、全国的な人気者となったこのコンビは、戦後はすでに解散しており、独自の活躍をしていた。(「おちょやん」で描かれるラジオドラマなどは、アチャコ単独の活動である)昭和30年、東京の宝塚劇場で行われた上方芸人による公演を見た小林信彦は、<客席はがらあきだった>と書いている。また、澤田によると、<「その年(昭和36年)の夏、ふと気がつくと上方コメディは下火になっていた。」> 

こうした退潮ムードを打破しようと、澤田は<ダイマル、ラケット蝶々(注:ミヤコ蝶々)、エンタツのベテランと、藤田まこと、川上のぼる、白木みのる(中略)といった若手とのかみ合わせを中心に、(中略)上方コメディアンの総結集版『スチャラカ社員』を企画した> と書いている。

そして、「スチャラカ社員」の人気が「てなもんや三度笠」へとつながる。小林によると、香川ー澤田コンビは、TV関係者の間でも視聴率を公然と言わなかった時代において、<視聴率第一主義とでもいうべき発想> で、どうすれば数字を取れるのかを徹底的に追求し、<その後にくるテレビ界の状況を“先取り”していたともいえる>としている。舞台を中心に回っていた喜劇・コメディを、TVというフォーマットに変換することに成功したのである。

なお、「てなもんや三度笠」は私も覚えていて、劇中に挟まれるCM的なフレーズ「あたり前田のクラッカー」や、財津一郎の「〜してチョーダイ」といたフレーズは、子供の大好物だった。

人気の裏側で、澤田隆治は演出に厳しく、芸人から恐れられていた。また、小林信彦は、3本のレギュラーを抱え多忙を極めていた澤田のことを、「眠らない男」と書いている。

その根っこにある部分を、小林はこう書いている。<私を含めた三人(注:澤田/香川)に共通しているのは、喜劇が芯から好きで、とくに香川=澤田コンビは喜劇と心中してやまないといった意気込み>

この澤田の笑芸への愛情は、「花王名人劇場」につながっていく

てなもんや三度笠 (前編) 50年ぶりに演出家と出演者が語る驚きの舞台裏

てなもんや三度笠 (後編) 50年ぶりに演出家と出演者が語る驚きの舞台裏


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