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聖徳太子千四百年遠忌に読む〜山岸凉子「日出処の天子」(その3)

電子書籍版の定本となっているのは、KADOKAWAから出版された「日出処の天子」“完全版“、カラー絵なども再現されたバージョンである。このシリーズの最終巻が第7巻、フィナーレを少し紹介する。

この巻において厩戸王子と蘇我毛人は2度対峙し、濃厚な対話を繰り広げる。

蘇我毛人は、厩戸王子の愛と自分との特別なつながりを感じながらも、女性へと向かった自身を振り返り、< わたしは 一体 王子の何なのだろう?>と自答する。

一方の王子は、自分の人知を超えた能力が及ばなかった毛人のことを、<わたしの 力がきかない 毛人というのは 一体 私の何なのだろう?>と考える。

そうして、二人は対面する。王子は二人は同根であり、<わたしとそなたは一つになるべく生まれてきたのだ>、<二人 力を合わせれば 一天四海を握るが如く 全てを支配できるのだ>と説く。

これに対し毛人は、それが本当なら<人間としての領域ではない>とし、故に二人は<この世で 決して一つにはなってはならぬ…ということなのです>と反駁する。

それでも毛人にすがる王子、女性などいなくとも二人で高めあえると主張するも、毛人は<この世は男と女の二つで成り立っているのです!>、<あなたさまは その半分の種を 見返らぬまま 何かを成そうというのですか>、<人は行くつく所まで行きついて 初めて完成するのです>。

「日出処の天子」の大きなテーマの一つが、「天人唐草」からつながるジェンダー問題であり、それが二人の対話により、浮かび上がっている。

さらに、厩戸王子が望む愛というのは二人の同化であり、毛人はそれは他者への愛ではなく、<その実 それは…あなた自身を愛しているのです>と告げる。 決定的な場面であり、王子と毛人の間に距離ができ、地割れが起きる。印象に残る一場面である。


その後、厩戸王子は絶望からはい上がり、ひと回り大きな政治家になると共に、仏に対しての“信仰“を考えることになる。そして、先が見えていても、動き続けることの重要性を悟ることとなる。


尚、この“完全版“には、厩戸王子の子孫、蘇我入鹿らを描いた「馬屋古女王(うまやこのひめみこ)」や山岸凉子のインタビューも収録されており、こちらは未読だったので新しい収穫でもあった。

「日出処の天子」、千四百年遠忌の再読に値する名作だと思う


*YouTubeにこんな動画がアップされていた。頷ける箇所、賛成できないコメント、色々だが掲載しておく


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