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澤田隆治という人〜TVの笑いを作った男(その2 体験編)

「てなもんや三度笠」などで一世を風靡した澤田隆治だが、その後も順風満帆とは行かなかったようだ。

きっかけは、香川登志諸=澤田のゴールデンコンビの決裂、それに伴う「てなもんや」の終了、1967〜68年にかけてのことである。その原因について、両者と関係の深い小林信彦は<口をつぐむほかはない> とする一方、<この決裂は、大阪のコメディのために大きな損失となった>と書いている。

澤田は朝日放送のデスクワークに戻り、1971年にはラジオ報道部に異動する。

不遇をかこう澤田に、「11PM」や「ゲバゲバ90分」などをプロデュースした、日本テレビの井原高忠が上京を勧め、澤田は東京に進出、番組制作会社「東阪企画」を設立する。ちなみに、吉本興業が制作部東京事務所を設立するのは、ここから10年近く後の1980年である。

東阪企画が手がけた番組の一つが、1979年開始の「花王名人劇場」。高校生の私は、この番組を画期的なものとして受け止めていた。「裸の大将」などのドラマの回もあったが、桂枝雀や、夢路いとし・喜味こいし、中田ダイマル・ラケットといった名人の落語や漫才を、持ち時間たっぷりに見せてくれる番組は新鮮であり、かつ貴重であった。

中でも、1980年1月20日に放送された、「激突! 漫才新幹線」が、漫才ブームの火付け役と言われている。小林信彦は<東京代表として星セント・ルイス、大阪代表が横山やすし・西川きよしで、つけ合わせとして新人のB&Bが出た>と書いている。

その後の、漫才ブームはまさにリアルタイムで体験していく。やすし・きよしは新しい時代の大御所となり、B&Bに続き、古臭いセント・ルイスを蹴散らすツービートが登場といった流れになる。”お笑い”は一大ブームになるとともに、TVの重要なコンテンツとなり、今に至る。

「てなもんや」などで、舞台中心の笑芸人をTVフォーマットに変えた澤田隆治が、先祖返りのように舞台そのものをTVに乗せたのは、もちろん人気とコスト(少数芸人による舞台中継は圧倒的に安上がり)の関係はあったが、やはり芸に対する愛情があったと思う。

その想いは、様々な著書や、自身が監修するCDとしても残っている。私が大好きなのは、「澤田隆治が選んだ 中田ダイマル・ラケット ベスト漫才集」(CD2枚組)である。ここには、その至芸が詰まっており、何回聞いても新鮮である。

日本の笑芸界に大きな功績を残した澤田隆治さん、ありがとうございます、ご冥福をお祈りします

花王名人劇場「さようなら!中田ダイマルさん」はこちら


*名人劇場ではありませんが、ダイラケのシグニチャー・ネタ「僕の幽霊」です


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