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錦秋十月大歌舞伎「文七元結物語」(その2)〜山田洋次が重視した”義理人情”

(承前)

落語「文七元結」の構造は次の通りである。

①長兵衛の長屋〜娘お久がいなくなり、長兵衛と妻お兼がやりあう中、吉原の妓楼の若い衆が現れる
②吉原の妓楼〜やってきた長兵衛に、妓楼の女将がお久が来ていることを話し、五十両を貸す。
③大川端〜五十両を懐中に家路につく長兵衛は、集金した金を盗まれ身投げをしようとする手代・文七に遭遇
④文七が働く大店〜帰宅した文七、盗まれたと思っていた五十両の金は。。。。
⑤再び長兵衛の長屋〜夫婦喧嘩の中、文七と主人が現れる。そして、めでたしめでたし

お久は両親を窮状を救おうと、吉原の角海老という妓楼に自ら出向き、我が身を買ってくれと申し出たのだが、山田演出の「文七元結物語」はこの場面から幕を開ける。落語では②において女将が説明するくだりである。

山田洋次は、これを場面として提示、お久の実母ではない継母であるが故の、親を救いたい気持ちをこの芝居のテーマのように見せる。”義理・人情”のドラマであることを強調したのである。

「文七元結物語」は、次に①の場面へと転じ、ここでもお兼(寺島しのぶ)の口から、お久は「自分の腹を痛めた子ではないが」とても大事な存在であることが放たれる。そうして②③とつながるのだが、これまでの歌舞伎「人情噺文七元結」同様、④の場面をカットし、あくまでも長兵衛家族に焦点を強く当て続ける。

お兼・お久が実の母娘か義理なのか。私はどちらも良いと思う。圓生が重要とする“義理・人情“は現代には伝わりづらくなり、志ん朝始め多くの演者が、その点にハイライトを当てないのはよくわかる。一方で、圓生・山田洋次のアプローチは、さまざまなことを考えさせる演出でもある。

実の親子であるが故の甘え、義理の親子間であることによる一種の緊張感(良い意味での)、忘れられがちの恩義。

一方で、この舞台の長兵衛を見ていると、理屈を超越した“血のつながり“による愛情も感じられた。それは、演じた中村獅童の魅力でもある。

明日は、山田洋次新版「文七」を演じてくれた役者陣について少し書く


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