〜 風の告白 〜 4. 私はサイコ
子どもの頃はふつうだったのに、歳をとるにつれて徐々に涙もろくなり、最近の私はすっかり泣き虫である。
どのくらい泣き虫かというと、明治安田生命のテレビCMで小田和正の歌声が聞こえてくると間髪入れず、待ってましたとばかりに滂沱の涙が流れ落ちる。再放送の刑事ドラマでラストの謎解きとお説教のシーンになると泣く。片平なぎさでも泣く。水戸黄門みたいなそんなに涙を狙っていない終わり方のドラマでも泣く。
ネットで忠犬物語みたいなのを見ても泣くし、どこか窓の外で小さな子どもの声が聞こえただけでも目が潤む。ドライアイとはまったく無縁である。
泣くという感覚は誰かに見られるとやはり恥ずかしいことを除けば悪くない。泣けば涙で流されてストレスが軽減されるという話にもなんとなく納得がいく。もしかするとだからいつもヘラヘラしていられるのかもししれない。
だがしかし、私は父が死んでも母が死んでも一滴の涙も出なかった。無理して泣くのを堪えていたわけでもなく、父や母がいわゆる毒親で憎しみの対象でしかなかったというのでもない。ふつうのいい人たちだった。
しかし私は、ただ、ああ死んだ、と思って、それからは葬式の算段などに気を取られていただけのことだ。いまも生前のあれこれを思い出すことはほとんどない。
飼い犬が死んだときには盛大に泣いた。ペット霊園に遺骨を納め、帰ってきてヤツが使っていた器やトイレやタオルなんかを片付けながら、まだおいおい声を上げて泣いていた。ああ、思い出すといまでも目頭が熱くなる。
つまり何物にも邪魔されない自分だけの勝手な想像や思考、感情のなかでしか泣けないのだな、きっと。
それにしても、それだけだろうか?
これはどういうことなのだろう? と考えてみた。親が死んでも平気な顔をしているなんて冷酷なオレ、と簡単にいってしまえばそれで終わるのかもしれないけれど、そしてそうして終わってしまってもいいお話なのだろうけれども、告白しておこう。
たぶん私はサイコなのだ。涙もろいということは共感力が強いわけで、そうするとサイコではないようだけれども、タイミングのいいことにイギリスの心理学者らによって共感力の強いサイコが発見され、「ダークエンパス」と名付けられているという記事を最近読んでしまった。
でもって共感力は強いのだけれども、その共感はいつまでも続かず、なにかのきっかけですぐにただただ厄介で面倒くさいことになってしまう。
あ、まったくモテないので「カエル化」の心配はない。悲しいけれども。
そんなわけで私はとことん自分勝手なヤツだ。だから世の中をそんな自分の尺度で見て、たとえば悲恋物語を読んで泣きながら民族浄化を企てるなどという究極に矛盾した行いもあるだろうなあ、と思うのだ。人間は信用できないぞ、と。
そういえば友達もいないし。
嫌なことに気づいてしまった。
(了)
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