ショートショート 1分間の国 ◎【老境花畑】


 私はジジイである。耳は衰え目はかすみ、呂律は回らず歩くのさえも億劫だ。


 それまで自分を騙し騙ししても拒絶していた年寄り呼ばわりを受け入れるようになったのは、還暦をはるか過ぎてまず頻尿になり、それからほどなく食事の量が明らかに減ったときだ。


 とくに病気などはしていないので、年齢を重ねて自然に膀胱も胃も硬くなったということなのだろう。こういう静かな変化がジジイを自覚させるには効く。病気なら、それが治ればまた元に戻れるかもしれないという一縷の望みにいじましくも縋ってしまうだろう。


 ジジイになってどう過ごしているかといえば、日がな一日バカなことを考えている。そのたぶん3割程度はえちち絡みだ。女性が知れば不気味にもおぞましくも恐怖にも感じられるだろうけれども、これは男性なら誰しもの事実だ。


 歩道をよちよち歩いているジジイだって頭の中にはしっかりえちちが生きながらえて活動している。お大師さまとではなく、えちちとの同行二人。たぶん死ぬまで続くのだろう。


 そんなジジイの私がさきほどまでベッドのなかで考えていたのは〈正常位〉とはいうけれども、誰があれを正常だと定めたのか、勝手な決めつけではないか、あれはほんとうに正常なのか、むしろ窮屈で不自然ではないか、猿やチンパンジーでも見たことはない、したがってどこかの誰かさんがきっとなんらかの意図をもって〈正常位〉と名付けたのだろう、とかいうことと、48手もあるらしいけれども指折り数えるに私には5手しか経験がない、残りの43手を取りこぼしたままこの世を去るのは実に名残惜しい、というようなことだ。バカだ。


 そうこうしているうちに、早くも窓の外の梅が咲きはじめている。命はスピードなのだ。


 だが、さらに、と考えていると、では、たとえばヨーロッパの見知らぬ土地の料理を食べてみたいとか、アフリカの隅々まで探訪してみたいとか、とは思わない、という気持ちにいき当たる。


 若いころならまだしも、大きく腕を広げてあれもこれもという志向はいまはない。もうこのジジイに量や種類のバリエーションは魅力ではなくなっている。


 そんなことよりも、ただただ1日1日の積み重ねのほうが尊いように感じるのだ。空間的な広がりよりも時間の層の厚さ。


 たとえば、なんの変哲もない庭の石に、毎日バケツに汲んできた水を柄杓でかける。雨の日は傘を差してでもかける。そんな意味のないことでも日々続けることこそ、かけがえのない行いではないのかと思ったりする。運がよければ綺麗な苔が生えるかもしれないし。自らが認めるジジイになったいまからではもう遅いけれども。


 こんなことを考えてしまうのは、着実に最期のときが近づいているしるしなのだ。しかし体は健康だ。頭のなかのお花畑がまた咲き誇る。


                            (了)


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