れいわ怪異譚❻ 【ゴキ】
四百字詰原稿用紙八枚程度
三日前の夜、就職内定先の食事会から帰ってシャワーを浴びたとき、みぞおちのすぐ上の平らになっているところにポツンとひとつ小さな赤い点ができているのに気づいた。
その赤いポツンはニキビだろうという予想に反してみるみる成長し、いまではコンビニエンスストアで売っている肉まんより大きい。バランスからいえばウルトラマンの胸についているカラータイマーよりも大きい。触ると付け根の部分に少し痛みがあり、てっぺんの餡を閉じ込めるヘソのあたりにはむず痒さがある。
食事会ではトルコ料理なるものをはじめて供されたので、もしかするとふだん慣れないものを食べたせいかと思ったりもしたが、食あたりにしろ寄生虫にしろ、こんなに一気に腫れるのは聞いたことがない。
なにかにぶつかった、傷つけられたという覚えもないし、ただ身体の中から出てきたというより見当がつかないのだ。
原因不明の子どもの急性肝炎がニュースになっているけれども、これもニュースになっていい類のものではないのか。つまりこれから流行る、どういう意味かで重大な疾患なのではないか、と思ったりしている。
ネットで調べたなかにひとつ気になる情報があった。モルジェロンズ病というものだ。カナダ出身のシンガーソングライター、ジョニ・ミッチェルが罹っていると主張している奇病で、皮膚の下を虫などが這い回っている感覚に襲われ、全身に痒みが出て、掻くとそこの皮膚から色とりどりの繊維が出てくるらしい。ポップだ。
そしてジョニ・ミッチェルは生きながら体液を吸い出されているそうだ。
正体が不明なゆえ、〜らしいという話しか聞かないが、ジョニ・ミッチェルは実際にこれで倒れて救急搬送もされている。アメリカを中心に一万二千人ほどの症例が報告されているという。
精神的な病ではないかという説のほか、遺伝子組み換え作物をつくるために広く操作されている土壌バクテリア、アグロバクテリウムとの関係を示唆する説もある。
しかし最も魅力的なのは、ネットを介して感染するのではないか、という説だ。新しいではないか。ネットのミーム、集団妄想の一種にすぎなくても。
ボクはネット利用の多さについては自信がある。自分から発信することはないが、自宅にいるときには必ずなにがしかのチャンネルを見ている。ネットを介して感染するのであれば、感染者たり得る資格は十分だと思う。
おお、そしてそうこうしているあいだにも刻一刻と胸の膨らみは増している。
膨らみに人間の顔が浮かんでくると人面瘡、カサブタになってくれば聊斎志異に出てくる残酷極まりない珍味、人鮑を名乗ることもできる。しかしいまのところその兆候はなく、たいへん牧歌的にただオデキというしかないのが残念だ。
友達に相談すべきかもしれないけれども友達はいない。家族とはできるだけ話をしたくない。
友達がいれば、でっけえオデキができちゃってよお、と楽しく笑い話にできたのに。
病院に駆け込むにはなにかいまひとつ深刻度が足りない気がする。おもしろがられて終わるのは不本意だ。だからそれもこれももう少しようすを見てからにしよう。
困るのは、徐々に頭の中がかすんできたことだ。すでに、いま現在のように少しはっきりしているときもあれば半醒半睡のときもある。
ってえことはなにかい、胸の大きな女は頭の中身が軽い、といういまなら市中引き回しのうえ磔獄門ものの、口が裂けてもいえないいいぐさがあったけれども、ちょうどそんな按配になっているのだろうか。鋸挽というのもあった。
ああ、また大きくなっている。体がだるい。それにオデキの成長にともなって手足がだんだん細くなっている。
たいへん恐縮だが、いまや巨大オデキに成長したこの半球の存在感をなにかに例えるとすればこれしか思いつかないのでご容赦いただきたい。
神の乳、安齋ららくらいに大きくなっている。
いやまたまことに申し訳ないけれども安齋ららはデビューして九年目、二十八歳。どうしてもいささか疲れが見えはじめているのは否めないのでござる。なので例えるならば、デビュー四年目の二十三歳、夕美しおんのほうが適当ではないか。ともにCカップとプロフィールにはなっている。二人ともデビュー時十九歳というのはなにかとても切実な感じがする。
さらに調べるとCカップとはバストトップとアンダーの差が三十二・五センチであり、これに対応するブラジャーは一般のランジェリーショップにはほとんど置いていないのだそうだ。
ちなみにボクの頭の周囲は三十三センチほどあって、これもなかなかそこらでは適当な帽子を買えない。外人サイズを買えばいいと思われるかもしれないれども、外人さんは頭が小さいのでごわす。
ボクの体には規格外が二つもある。
そしてさらに、Cカップのバストは片側だけで約二・五キロもある。らしい。つまり二リットル入りペットボトルの全量よりも重い。あの筋肉トレーニング時のダンベル代りになるペットボトルより重い。
左右二つだと当然二倍の重さになるから総重量約五キログラム。急いで歩かせたりしてはいけないし、走らせるなどもってのほかだろう。
直立してトップとアンダーの差三十二・五センチから推測すると、胸の谷間から乳房の先まで約二十センチは突出することになる。自分の足元が隠れて見えないというのもむべなるかな。これはすでに生活に支障を起こすレベル、また叱られそうだが手帳をいただかなければならないレベルではないか。
ネットはいろいろなことがわかっておもしろい。
いま確認してみたら、ボクのは一個だけだが、確かに足元が隠れてしまう。靴を履くときなども不便はありそうだ。乳房の大きな女性が小さく見せたいという願望をもっているというのもわかるような気がする。
本物の女性の乳房をまだナマで見たことも触れたこともないボクにとって、これはたいへん貴重な経験であった。
だんだん朦朧としていまがいつどきなのかもわからなくなってきた。
相当まずいことになっているのではないか。そういうあいだにも胸のオデキは加速度的に大きくなり続けている。もう試してみる勇気すらないが、寝返りも無理だろう。超巨大だ。
もし寝返りが打ててオデキが背中についているなら、甲羅の背が高いリクガメのようによちよち歩けるかもしれない。
ああ、そうか。なんと残酷な。ついうっかりうとうとしているあいだに体とオデキの主従関係が逆転してしまったのだ。ボクはオデキができた人間ではなくてオデキに頭と四肢がついた生き物になってしまった。
カフカの『変身』の主人公グレゴール・ザムザの気持ちがよくわかる。
ある日イモムシに変身してしまったザムザは結局なんの解決もなく、家族に与えられた部屋で死んでいく。これはつまり子供部屋おじさん、略してこどおじのお話だったのだ。カフカの先験性は死後百年を経て極東の日本にフォーカスした。
二十代になったばかりのボクもまた同じような運命を辿るのだろう。
この宇宙に人類が誕生したことになにか意味はあるのか? ない。とすればボクが生まれようが死のうが、そんなことはどうでもいいのだ。
トルコ料理の店でもらってきたトルコと日本の小さな国旗、そのうちの日の丸を、腕を必死に伸ばしてオデキのてっぺんに立てた。
ベッド脇のテーブルに置いたパソコンの暗い画面に写っている小さな日の丸とボクの巨大な丸い胸は硫黄島の摺鉢山と星条旗のようだ。頑張って息を吹きかけるとかすかになびく。
ここを事故物件にしてしまって申し訳ない。だがもしかすると、将来、硫黄島より有名な場所になるかもしれない。まあそれは無理だしそんなことは望んでもいない。
破裂した!! オデキがとうとう破裂したぞ!! ……中から、中から……、いやいやいやいや、おおゴキブリだ。これはカプセルトイだな。……、でっかいクロゴキブリだこと。ああっ!! 少し動いた。
(了)
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