れいわ怪異譚❹ 【奢る死者 — 風を待つ】

*たいへん極端な内容を含みます。お食事中などにはご注意ください。


                   四百字詰原稿用紙十二枚程度


「まあ、あれだね。こういっちゃなんだけど、なんだかんだいって死んでしまえば、それからこっちはのんびりしたもんだね。痛くも痒くもないし、暑くも寒くもないし、腹も空かない」

 オカモトと名乗る男が強がりをいってベンチに腰を下ろし、脚を伸ばした。立っていたときはかなりの長身だったが、座ると小さい。

「まったくです。そのうちにまたどこかからお呼びがかかるんでしょうけどね」

 ヤマちゃんが気のない相槌を打って

「だって、みんながここに溜まったままじゃ、そのうちきっと窮屈になります」

 農家らしくどこか他力本願な理由を付け加えた。死んでからなにがどうなるのか、すべからく本当のところは誰にもわからない。だから死について話をしても空転するしかない。

 オカモトさんが引き取る。

「そうですか。……私が思うに、ここから先は……、今度は本当にきれいさっぱりなくなってしまうんですよ、きっと。なにもかも、無に還るってやつですな。……、水泡に帰す、かな」

「ははは」

ヤマちゃんが大きな頭を揺らして笑った。

「元の木阿弥」

誰かが水飲み場のほうで呟いた。

「無に還る、闇に還るはもう一種のクリシェで、……こりゃまったどうじゃろかい、っと」

 埒のあかない堂々巡りにすっかり業を煮やしたオカモトさんは投げやりにいって脚を組んだ。細い脚は縒り合わせた蔓の杖のように密に絡み合う。後ろ手をついて夜の空を見上げると、その顔に大きな雨粒がパラパラと落ちてきた。

 みるみる激しくなる雨足は、梢や植え込みや地面を叩いて耳を塞いだ。景色が水に沈んだように歪み、ところどころぼやけている。

 期待はしていなかったけれども、先達らの迎えはやはり影も形もなく、渡るべき賽の河原も三途の川もない。ケルベロスも閻魔もいない。天国への階段も扉もない。天国も地獄もない。

 予想していなかった新参者への無愛想にヤマちゃんもオカモトさんも大いに安堵し、同時に拍子抜けもしているのだった。

「時間がなくなっていないらしいのは、次元はそのままということですね、きっと」

 ヤマちゃんが思慮深げにいう。しかし大きくて無骨な首から上だけのその姿には、やっぱりまったく似合わない。

「生きていた時分には死んだらどうなるとかあの世はどうなっているとか、……」

 コハル姐さんがベンチの後ろで抑揚のない声を出した。

「さんざん勝手なことをいっては怖がらせる人たちがいましたけど、なんかまたそんなような雲行きになっていくんでしょうかね」

 コハル姐さんはいつも姿はなくて声だけなのでコハルFMと呼ばれることもある。

「カミもホトケもないのに、でまかせで飯を食ってやろう、稼いでやろうなんてセコい連中はここにはいないでしょ。そんなペテンが通用するわけもないし」

 随分と割を食った生き方しかできなかったといまだに悔しがるヤマちゃんが吐き捨てた。

「そのあたりの空き家に入って、あっ声が聞こえたっ、ひとりでにドアが閉まった、脚を掴まれたっ、なんて小芝居をしているのは、心霊現象を信じていないからこそだと思います」

 長髪の青年が芝生にあぐらをかいて誰にともなく皮肉る。雨に濡れたようすがない。

「黒いモヤモヤがフワフワっと出てきて幽霊の姿をカメラで捉えた、といってる心霊映像ってのを見たことありますけど、あんなのが幽霊ならオトナのビデオは幽霊だらけですよねえ」

 コハル姐さんがだるそうにいう。

「アソコが憑依されっぱなし」

 ヤマちゃんがさもバカにしたようにいう。

「だいたい幽霊はどうしてあんなに隠れんぼが好きなの? 暗闇に隠れたりドアの陰から顔を半分だけ出したり、窓の向こうに突っ立ってみたりしてさ。堂々と出てくればいいのに」

 オカモトさんもこの件は不愉快らしい。

「いやだから……、死んだら自分はなんにもなくなるっていうあたりまえのことをまともに受け取るとやっぱり怖いですから、そういう人の心の平安のために、あの世の話、宗教とか、もっと身近だったら怪談話とか心霊とかそういうことになってるんじゃないですか。そもそもでいうと」

 いつのまにかベンチ脇の街灯にもたれるように立っていた青年がオカモトさんをとりなす。

「だから生きてきた世界の延長のようなものをってことで、天国だとか地獄だとか、神様だとか仏様だとかの世界を無理やりひねり出したんだと思うんですよね、ボクは。テキトーに。人間様の考えることはみんな人間様の都合でしかないということです」

 青年の前髪が水草のように雨の中を風にゆらゆらと揺れている。

「死んだらなにもかもなしになるとなるんならば、ロクなことにはならないだろうしねえ」

 コハル姐さんがややこしいいい回しのあと、不義理なんかし放題だろうしさ、アバズレ感を出す。

「死んでもまた別の世界があると設定すること自体が救済なわけです。……でもやっぱり死ねば終わりですから。実際に死んでしまえば時計のゼンマイが切れて止まったみたいなものですから。ああゼンマイが切れたな、と感じる暇もなく。生きているときはそれがこわいんです。そのあとでまたこんな退屈があるなんて想像してなかったですけど」

 激しくなってきた雨が青年とヤマちゃんとオカモトさんを通り抜けていく。

「いやあ、そうじゃなかったなあ、私は。痛くて苦しくて全身が焼かれるようだったよ」

 異を唱えたオカモトさんはしかしそれほどこだわっているようすでもなく、組んだ脚を所在なげにぶらぶらさせている。その先が雨の中に消えはじめている。

「ほら、私は心筋梗塞ですから。三大激痛の一つといわれているんでしょ。……いやあ確かに参ったな、あれは。ビーンときて、どうにもこうにもならなくてねえ。にっちもさっちもどうにもブルドッグで、発作的に隣で寝ていたやつの顔を思い切りぶん殴ってしまったくらいだから」

「痛いのはねえ……。声も出せない痛みに悶え苦しんでいるときに隣でノンキにスヤスヤやられたら、そりゃやっぱり腹が立ちますよねえ」

 ヤマちゃんがどこか嬉しそうに相槌を打つ。にっちもさっちもどうにもブルドッグ、という昔のアイドル歌謡の歌詞を拾う者はいなかった。

「……、痛くて痛くてそれこそ死ぬかと思うくらい痛かった。そしたら死んだ」

 いったオカモトさんとヤマちゃんが声を揃えて笑いころげた。二人はけっこう気が合う。

「タイヤネックレスって知ってます?」

 痛い話なら、と青年が割って入った。

 説明によると、縛り上げて広場や路上に座らせた人間の首にガソリンを浸みませた古タイヤをかけ、それに火を点けて焼き殺すのだそうだ。

「あれもかなり苦しいとは思うんですよね。見た目も強力だし」

 若者の口元が夢見るように微笑む。

「南アフリカなんかでやられていたリンチだよね……」

 オカモトさんが妙なところで物知りぶりを発揮する。そのオカモトさんに向かってヤマちゃんが蒸し返した。

「オカモトさん、あんたやっぱり腹上死だろ」

 決めつけたいい方に一瞬緊張した空気が流れ

「あらあらそれはたいへんなはた迷惑で」

 コハル姐さんが女の立場で物申した。

「心筋梗塞なんて澄ましたいいかたをしなくったっていいじゃないの。腹上死なんて男の本望なんでしょ」

「……羨ましいこってす」

 ヤマちゃんがボソッと呟く。

「どうして決めつけるんですか?」

 オカモトさんがグスンと鼻を鳴らした。

「私やオカモトさんくらいの歳になって、すぐに手の届く距離に誰かが寝ているなんて、そりゃ愛人か妾に違いない」

 でしょ? とヤマちゃんがダメ押しをする。

「語るに落ちたというわけですよ」

「うむ。そうか。それでな、まあその隣に寝ていた女が私が咄嗟にかました張り手一発で気絶しちゃったらしくてな、しばらく一一九番も呼んでもらえなかった」

 オカモトさんは腹上死を隠していたことに微塵も悪びれたふうを見せずにいい返した。

 街灯の横の若者がけたたましく笑う。

「この歳になって、ねえ。ちょっとした冥土の土産話になっちゃったよねえ」

 オカモトさんとヤマちゃん、そして青年の三人がまたケラケラと笑い声を上げた。

「愛人か妾って時代でもないでしょ。……どうせ安っぽくて小便臭いパパ活女子ってところよね。すんだらさっさと帰ればいいのにいつまでもいぎたなく大股開きでいびきをかいているからそんな恥ずかしい目に遭うわけよ。自業自得、身から出た錆」

 コハルFMが相変わらず抑揚のないしゃがれた声で冷たく宣告する。

「でもね、それでもね、私の死に方に比べれば相当マシなほうだと思いますけどね」

 ヤマちゃんがこれまで頑なに触れようとしかった自分の死因を、ついに公開しようと決心したらしい。コハル姐さんもオカモトさんも固唾を呑んで待ち構えた。

「肥溜めに落っこちちゃったんですよ」

 オカモトさんが遠慮のかけらもなく笑いを爆発させ、花壇の向こうで雨の中、わざわざ傘をさしてブランコに乗っているカップルをキロキョロさせた。

「ヤマちゃんたら、〈生き生きと死ぬ〉とか〈現代の愛される死にかたとは〉なんていう講演会にまで出かけて一生懸命だったらしいのに、いくらなんでも肥溜めは残念すぎるわね、…」

 コハル姐さんがごく真面目な様子でやさしく慰めた。

「しかも、ですよ。しかも溺死ですから。肥溜めで溺死。フン死じゃないんですから」

 ヤマちゃん渾身の自虐ギャグも、オカモトさんの大爆笑の後では不発だった。誰も笑わなかったのは、不謹慎だと自重したのではなく、あまりの惨劇に圧倒されて、でもなく、ヤマちゃんの心情を斟酌して、でもなく、いま語られている衝撃的な状況がいまひとつよく飲み込めていなかったからだ。

「どうしてそんなことになっちゃったのかしら?」

 コハル姐さんがわざと興味なさげな口ぶりを装って聞いた。

「その肥溜めは農家が個人で使っていたやつでして、本体はヒューム管っていうコンクリート製の土管を縦に埋め込んで作ってありました。そして地面から一メートルくらいの高さで木製のフタがしてあったんです。
 個人宅用ですから内径が五十センチから六十センチくらいの小さなものでした。それを畑の畔の隅っに穴を掘って埋めてあったんですけど、私はそこに頭から落っこちたんです」

 うっ、と誰のものかわからない小さなうめきが漏れた。頭が大きいのも考えものだ。

「わかりますか? このヤバさ。肥溜めに逆さまに突っ込んじゃったんですよ。それで慌てて体をひねって上を向こうとしても、つまり頭を便の上に出そうとしても、狭くてデングリ返しができないんですよ。もーう、まったくヤバいんです」

 ジリッと足元の砂を踏みしだくような音がした。

「必死に伸ばしても上にも下にも、土管の縁にも底にも、手は届かない。土管の内側はなんだかもの凄くヌルヌルしていてよく滑る。で、腕を左右に突っ張って体を持ち上げようともしたんですけど幅が狭くてうまく力が入らない。ヌルヌルするし、……」

「足先が便の上に出ているのはんとなくわかったんですけどね。すぐそばで作業している人もいたんですけど……。……あのときどうすればよかったんでしょうねえ。どうすれば助かったのだろう、とときどき考えることがあります。ですが、結局は〈犬神家の一族〉のポスターみたいに、あれよりももっとエグい死にざまを晒す運命だったんでしょうかねえ」

そのときのことを思い出したのか、ヤマちゃんは慨嘆調になる。

「発見されたのは次の日の昼でした」

「オカモトさんは天国、ヤマちゃんは地獄。……」

 コハル姐さんが判定する。

「そういうのは嫌だねえ。いくら死んだら同じとはいってもねえ」

 オカモトさんが率直に吐露した。

「死は平等に訪れる、なんてこともいえないような気がしてきます」

 青年も思いを呟く。

 風が出てきて公園の樹々をそよがせる。青年とオカモトさんの薄い輪郭が闇に飛ばされる。ヤマちゃんがちぎれる。

 そうだ、こうして雨風に当たって消えていくのだ、屍のように、とそれぞれが了解する。

「んじゃあ、突然ですが、また生まれ変わりなんてことのないように、くれぐれもこれで本当に永遠の最期になるように」

 オカモトさんが細い腕を上げて挨拶をする。すでに半分ほどになっているヤマちゃんの大きな頭が向こう側の花壇を透かしている。

「さようなら」

 青年が叫んだ。

「さようなら、ワタシ」

 コハル姐さんがアンニュイに呟いた。

「さようなら、ヨーコ!!」

 オカモトさん。

「さようなら。肥溜めは掻き回すともっと臭くなるからな」

 ヤマちゃんの声も沈黙に旅立っていく。


                            (了)


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