掌編小説 ◎【松尾正吉、黒峰村に移住する】



 松尾正吉が購入した古い民家は、県道とは名ばかりの貧弱な簡易舗装の道から直角に伸びる私道の先にある。


 民家まで40メートルほどもある私道の両側は田んぼで、最近の収穫の跡がある。ここの土地は家と一緒に購入しているので、去年の暮れからは正吉の所有地だ。そこで誰が米づくりをしたのかはわからないが、別にことわりもなく云々、と咎め立てする気持ちは正吉にはない。


 おそらくは空き家になってからの何年間かはそのように使い続けられてきたのだろうし、正吉は農業にまったく関心がない。盛大に農薬を撒くようなことさえしてくれなければそれでいいと思っている。


 よそ者がことを荒立てて十数世帯しかない集落の秩序を乱すようなことはしませんから、……ひとつ仲よくお願いします、というたいへん弱気な譲歩が本音でもある。


 とにかくそのうち、というか、少なくともまた農作業の時期になれば、誰が田んぼをつくっているのかは自ずとわかる。なにしろ本格的にここに引っ越ししてきてまだ2週間しか経っていないのだ。


 正吉はアトリエ用に借りた黒峰小中学校の廃校舎から昼食を摂りに自宅に戻ってきたのだが、家には人の気配がなかった。


「ただいま。……、ただいま……、ただいま」


 独りごとを呟きながら床を張り直した食堂と居間の続きにくると、古材でつくった食卓テーブルの上に置き手紙があった。


〈すみません。私にはやはりどうしてもここは無理です。東京のマンションに帰ります。病院のことなどはまた連絡します〉


 定年退職を機に正吉のふるさとに移住する計画は、やはりあっけなく潰えた。都会育ちの妻にはたぶん無理かもしれないと危惧してはいたのだ。それでも早い。申し訳ないことをした。


 最終的なひきがねになったのは、おそらく昨夜の出来事だった。


 食事中、天井の梁から突然なにかが落ちてきたのだ。ボトンと鈍い音がして振り向くと、黒褐色の大きなネズミがすぐ足元の床に転がっている。血まみれで首を背中側に鋭角に曲げ、死角になっている部分では丸々とした腹が裂けているらしかった。歯を剥き出し、まだ激しくもがいている。長い尻尾が蛇かミミズのようにのたうっている。


 思わず立ち上がってそれを目のあたりにした妻の絵里子は一瞬にしてパニックに陥った。寝室に飛び込んでベッドに潜り込むと一歩も出てこなくなった。瀕死のネズミも気持ち悪かったけれども、それを見た直後の正吉の顔が悪魔のように不気味に笑っていたのだという。


 ネズミ退治のためにもらってきた保護猫が今回は裏目に出てしまった、しかしいい仕事をする。笑った覚えのない正吉が思い返すのには、そのときたしかこんなふうに考えていたのだった。


 絵里子にしてみれば、軽くはあるけれども精神的な疾患を抱えている正吉には言動にちぐはぐなことがときどきある。投薬治療を続けているとはいえやはり不安だ。そんな夫と2人きり、まったく知り合いのいない寂しい田舎で暮らせというほうが土台無理なのだ。


 冷蔵庫にあったざるそばをモソモソと食べながら、これはいよいよ離婚を切り出されても仕方がない、と正吉は早くも覚悟を決めている。ひとり息子はとっくに自立しているし、自分にはこの家と廃校舎に借りているアトリエが残れば十分だ。これ以上、絵里子に辛い思いをさせたり迷惑をかけたくない。


 昼なのに窓の外は薄暗く、大雨の到来を予感させる。なにもかもがよくない方向へ沈んでいく、と正吉はため息をつく。


 さっきから奥の部屋でガサゴソと物音がするのは、騒動の第1張本人、猫のゴスケだろう。古民家は梁が剥き出しになっていたり部屋が続いていたりして、猫が歩き回るのにいろいろ融通がきく。


 そのうちには、ゴスケが溜め込んでいるはずの狩の獲物の隠し場所を見つけ出さなければならない。


 ざるそばの片付けも済み、そろそろアトリエに戻ろうかと思っているところへ、出入り口の引き戸を叩くこもった音がして、返事をするまもなくガラガラと開いた。


 腰の曲がった小柄な老人が黒いビニールのカッパを着て立っている。


 ここの人たちはいつも忽然と現れる。まるで木の枝でカムフラージュして隠れているゲリラのようだ。それともここは忍びの里か。


「こんにちは」


 腰の曲がった老人は首を伸ばして刈り込んだ白髪頭をさらに低くし、そのままの姿勢で横から上目遣いに正吉を見た。白目と黒目の境があまりはっきりしないつかみどころのない目だった。


「こんにちは」


 挨拶を返しながら正吉は気まずい。まだ集落の人々への引っ越しの挨拶を済ませていないのだ。いくら夫婦揃って人付き合いが苦手だといっても、常識的にもうとっくに済ませていなければいけない。


 たぶんしびれを切らせて、わざわざむこうから挨拶にやってきてくれたのだ。


「地区会長の南部です」


「これはこれは、ご挨拶が遅れてたいへん申しわけありません」


 恐縮して招じいれると南部と名乗る老人は土間の中央あたりでいったん立ち止まり、吹き抜けの天井を見回してから、ちょっといいですか、と上がり框に腰を下ろした。


「私、松尾正吉といいます。定年、つい2年前まで銀行員をやっておりました。これからお世話になります。よろしくお願いします」


 南部老人は瞬間驚いたようにわずかに目を見開き、松尾さん、と繰り返した。


「もしかしたらここらの出の方ですか」


「はい。私は中学2年生までここに住んでいました。たしかこのすぐ下の、いまは藪になってしまっているところに家があったはずです」


「名前は」


 正吉だと答えると、老人は丸い背中を伸ばすようにして顔を覗き込んだ。


「私、あなたの1級上だったよ。そこの黒峰小中学校でね」


 あーあー、やっぱりあのころの面影が残ってますわ、と南部老人は今度はまじまじと正吉の顔を見つめた。


 黒峰小中学校は厳密には小学校と中学校の併設校で、小学校入学から中学2年で転向するまでの約8年間、正吉と南部老人は一緒に通っていたことになる。しかし正吉に南部老人の記憶はなかった。そもそも精神科で処方してもらっている薬のせいか子ども時代の記憶はほとんど消えているので仕方がない。


 それから南部老人は引っ越ししてきてすぐなのに残念なようだが、数年後にはこの辺りの集落の全世帯が集団移住する予定であること、代替地を県の方で用意すること、しかしまだ内々の話であることなどを話し、最後に今朝バスで町のほうへいったのは奥さんか、と訊いてきた。


 正吉は集団移住の話に戸惑いつつ、妻の今朝の行動まで把握している集落の人々の視線の執拗さに、より強い困惑と不快を感じていた。きっといつもどこからか監視されているのに違いない。


 妻は実家に用事があるのでしばらく帰ってこない予定だと伝えると、南部老人は正吉の父の名前を尋ね、それからいまも健在かとまた尋ねた。


 正吉は次第に疎ましく感じてきたものの、こうした露骨な好奇心むき出しの身上調査みたいなことも一度は受けなければならないのだ、と我慢した。


「父は正志といいました。もう10年ほど前に亡くなりましたけど」


 南部老人は視線を正面に移して頷き、今度は、あなたひとりっ子で兄弟はいなかったでしたね、と確認するようにいう。


 もういいだろう。


「そういえばここらあたり、昔は黒峰じゃなくて月見沢といっていたそうですね。いろいろなことをほとんど覚えていなくて、今回改めて知ったようなものです」


 南部老人の問いにうなずいて返しながらいうと、南部老人もつられたように首を縦に振った。気のせいか少し慌てた様子があった。


 なにかいわくがありそうだけれども、何年か後に廃集落になったとして、ここで一人で暮らすのもいいかもしれない、と松尾正吉はぼんやり考えた。人目を気にせず死んでいける。


 南部老人が立ち去ると、正吉は唐突に、猫のゴスケがこの家にやってきた日に見た、猫の芸者と乳児の極彩色の群舞の夢を思い出した。


 ネコの芸者はたしかイラストかなにかで見た記憶があるけれども、その夢が全体としてなにを意味しているのかを考える気持ちにはなれなかった。


                             (了)



次回もお楽しみに。投げ銭(サポート)もぜひご遠慮なく。励みになります。頼みます。


無断流用は固くお断りいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?