〜 風の告白 〜 2. やさしいキラーワード



そのとき、女神か天使か、超自然的な存在が現れて私にやさしく語りかけてくれたのだ、というようないい回しに、海外の歌などでしばしば出会う。

具体的には、たとえば、やんごとなき記者会見で好きな言葉として挙げられた「LET IT BE」みたいなもの。これはもちろんビートルズの名曲「LET IT BE」でマリアさまが現れて授けてくれた言葉として歌われているものだ。
キリスト教を生きているときっとそんなことにもなるのだろうなあ。

皮肉っぽかったらごめん。

レナード・コーエンの「Hallelujah(ハレルヤ )」もそんなふうにして愛されている曲のひとつだ。Hallelujahの繰り返しが祈りや賛美やそしてやがて赦しのようにも聴こえてきて胸を満たす。

私はまったくの無宗教、無信心、強いていえば実家の宗教は神道なのでよくわからない。ああ、また皮肉に追い討ちをかけてしまう。そんなつもりはないのだが、たぶんそういう生まれつきなのだろう。

そういう生まれつきでも、しばらくすると、“生きなかった人生”についての思いを馳せることがある。人生は選択の連続だから。あのときあちらの道を選んでいたら、……。

考えるつもりもなく、考えたくもないのに、ふと考えてしまう時期がある。

そうすると、私自身と並行して、それらいくつもの“生きなかった人生”が歩んでいるような気持がしてくる。私のパラレルワールドとでもいうような。いまさらそんなことを思っても飛び移れるわけでもないのに。だから考えるつもりもないのに、……。

いつもの散歩の帰り道、信号待ちをしていると、左の耳のすぐ後ろで女の人の小さな声が聞こえた。かすかにかすれて、それほど若くはない。淡々と素早く、感情を乗せずにいった。

「そうだね」

信号待ちをしていたのは私一人で、早朝なので通りがかりの人もいない。しかしその小さな声の存在は確かで、なにかに悩んだり考えごとをしたりしていたわけでもないのに、長く耳の底に残った。

空耳ではない。しかし不思議にも不気味にも感じなかった。

家に帰りつくころ、その小さな声はきっとすべてを肯定してくれていたのだと考えるようになった。

私が生きていることの全肯定。あまりに独りよがりかもしれないけれども、そう思った。現象としても常識的にそんなことはあり得ない。けれど、きっと、これでいい。

「そうだね」

その声はそれからもう一度だけ同じ場所で同じように聞こえてきた。左の耳に。

有名なブルース・シンガーに倣って、公園そばの四辻の啓示といえば格好がいいかもしれない。

いやそれがたとえほんとうに悪魔の囁きであったとしても、私はもうこの言葉に杖のようにすがってしまっている。そしてそれはきっとよいことなのだ。


                               (了)






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