〜 風の告白 〜 1. 人間好きの人間嫌い
結局、孤独がいけないのかもしれない。
孤独が続くと、たとえばいまのこの私の状態を指して孤独というべきであるかについても確信がもてないという奇妙な事態が出来する。
比べる者がいない、語り合う者がいないのだからそれはあたりまえなのだろうし、きっといつまでもわからないままだ。
そうしてやがて、一般的に見て、とか公平に考えて、というための基準が少しづつ少しづつ失われていく。自分がどこに立っているのかがわからない。これではいけない。と思う。
こんなふうにいろいろなことを思ったり考えたりしないわけではない、というわけだけれども、考えたことすらもすぐ簡単に忘れてしまう。
どうして、と考えれば、やっぱり孤独がいけないのだ。
そのくせ、人間にしかほとんど興味がない。一時バス通学をしていた小学生のころから、乗り合わせた大人たちの顔を一人ひとりしげしげと眺めては、この人はいま幸せなのだろうか、気が短かそうだ、いやらしそうだ、頭が悪そうだ、と、そんなことばかり考えていた。
だからといっていくら考えても人間は理解できるものではなく、最近になってようやく「人間」というひと括りで考えること自体が無理なのだと気がついた。
同じような積年の過ちがもうひとつあって、人間を観察しているこちらもまた知らず知らずのうち微妙にずれたり、揺らいだりしているので、いつまでたっても正しい観察結果が得られないのだ。
こんなふうにいつも人間のことを考えている。
そしてせっかく考えたことはすぐに忘れて堂々巡りのようにまた考え続けている。世のほとんどの人から見れば愚の骨頂かもしれないが、それもまた自分自身が知らず知らずにずれたり揺らいだりしていることを思えば無駄ではないのだろうと思う。
しかし、そもそも人間に対する興味からはじまってやがてことごとく人間が嫌いになり、孤独にいき着き、そしてそれに苛まれるようになってしまった現状のなりゆきはあまりにも滑稽でなんとか逃げだしたい。かといって友達をつくってまた嫌いになるのも気がひける。
そんなようなことで、これからは考えたことを残しておこうと思う。人が頼りにならないなら自分でなんとかするしかない。いつか古い記録のなかから自分を照らそう。
たぶんほとんどくだらないことばかりだけれども、これから折々ここに記していく。あなたを利口にしたり前向きにしたりすることはできないけれども、たまに一瞥をくれてもいいくらいのものにはしていきたい。そう心がけていないと、たぶん独りよがりの呪文のようなものになってしまう。
(了)
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