掌編小説●連作:不真面目な世界【殺人調理師のジョー】



 非戦闘員というのもここではおかしないいかたになるが、それも含めて敵の集団を皆殺しにするまでの戦いをするのは人間とチンパンジーだけらしい。つまり生まれたての赤ん坊から起き上がることさえままならない年寄りまで容赦なく殲滅してしまうのだ。


 人間の場合は、たとえば戦国時代の武将に代表されるように一族郎党根絶やしにしてしまわなければ後々の復讐、敵討ちが怖い、謀叛の芽は早々に摘み取っておく、といった一見合理的な説明がつくかもしれないけれども、チンパンジーの場合はどうなのだろう。


 去年閉鎖されてしまった京都大学の霊長類研究所によると、チンパンジーは遊びとして他の動物、ときには自分と同じ集団に属するチンパンジーさえ殺すことがあるらしい。遊びなので目を背けたくなるほど残酷ななりゆきになることもしばしばあり、そんなときには血に酔ってさらに行動がエスカレートするようすまで見られたという。共食いもする。一般のイメージに反して残虐このうえなくえげつない。


 しかもチンパンジーの牙は意外なほど長くて鋭い。腕力、握力は人間の約10倍といわれる。怖い動物だ。


 人間にもたぶん同じことが起こるのだろう。それでなければいつまでも戦争がなくならない説明がつかない。戦争はもともと文化の発展とともに不要になるはずのものだけれども、どう考えても、金儲けを含めても意味のない戦争がいまだに行われている。ただ愉楽としての戦争。


 残虐性はきっと知能にデフォルトで組み込まれているのだ。知能が発達すると同時に残虐性も生まれる。……、示唆的だが、僕にはそれ以上はわからない。とりあえず、人間とチンパンジーの遺伝情報は98.8パーセントまで同じらしい。


 だからいま東京を恐怖のどん底に叩き込んでいる謎の怪物も、正体はやはりチンパンジーだろう。刃物など道具を用いた形跡なしに、つまり手と口だけで人間の体を100個以上の断片に引きちぎることができる動物など、チンパンジー以外に考えられないではないか。


 そんな血まみれで場にそぐわないことを漠然と思い浮かべながらラーメンをすすっていると、ガラガラと乱暴に引き戸が開いた。太った中年男が入ってきた。一目瞭然、酒席の帰りだ。大きな顔を赤くし、たるんだ喉を震わせて口で息をし、「よっしゃ」と声を出して大きな腹を椅子に乗せる。


 いまどきめずらしいブランドもののクラッチバックをカウンターに叩きつけるように置く。まさにチンパンジー並だが人さまより足りない毛は3本どころの話ではない。


 ヘルメットは脱ぎなさい。……、そうしてどんどん寿命を縮めなさい。


 あんたよりずっと若いこっちは今日、退職を決意した。ついさっき、こんな夜更けまで綱引きをしていて……、発注先を競合同士で綱引きさせて決めるって、そんなバカな話ある? ……、狂っている。あんたたちのせいだろ。


「オヤジ!! なにか変えたか?」


 ラーメンを左利きで、そしてハゲ頭を左右に回転させながら2、3回口に運んだ酔っ払いの中年男が突如大きな顔を上げて叫んだ。額が狭く広島県出身のヒバゴンにちょっと似ている感じもする。少し愛嬌があるともいえる。カウンターのなか、厨房の店主と手伝いのおばちゃんが呆気にとられた顔を見合わせる。常連客ではなさそうだ。


「いえ、なにも変えていませんけど、……」


 店主が黄ばんだ大きな目を少し泳がせてオズオズと答え、おばちゃんは無礼な客に向き直って臨戦態勢に入った。ほか約4名の客は知らぬふりだ。男がまたひと口。


「浅い!! 味が浅あーい!!」


 出入り口正面のカウンターから吠える。店としてはなにも変えていない以上、浅いといわれてもなあ、であろう。こういう素人の相手をするなら綱引きのほうがマシかもしれない。


 浅くてお気に召さないなら帰れ。しかし酔っ払いのデブオヤジはズーズーとすすり続ける。さて、振り上げたその拳はどうするのだろう。


「おいっ、そこのチンドン屋。なに見てんだ。こらっ、おいっ、こっちを見るな」


 デブオヤジの向こうに2席ほど離れて黒い着物を着た、リーゼントのような一風変わった髪型をした男が座っている。蛍光灯の明かりに白く映えた顔はたしかに化粧をしているようにも見える。しかし、それにしてもチンドン屋とはまた思い切った挑発をしたものだ。デブオヤジを睨んだその目が深く鋭く切れ込んですでに怒りというより怨み骨髄の形相、まことに凄まじい。見世物小屋の看板のペンキ絵にある目だ。


 高みの見物。


 バン!! という大きな音が店中に響いた。他の客4人ほどが座ったまま小さくジャンプし、コンクリートの床に落ちたラーメンどんぶりがカパッと音を立てる。


 何者かの影がデブオヤジの後ろに仁王立ちしている。そいつがデブオヤジの後頭部を押して猛烈な勢いでカウンターに叩きつけたのだ。その何者かの後ろからふた回りほど小さな影が飛び込んできて軽々とカウンターを跳び越えた。


 いきなりバイオレンス。現実味がありません。しかしバイオレンスというものはいつもいきなりはじまるような気もする。


 人間ではない後続の3頭は陽気な叫びをあげて厨房を縦横に跳び回る。「金目のものを出せ」といわれるのかと思い、金目のものは持っていないがどうしたものかとうっかり気を揉んだが、こいつらの正体は猿、チンパンジーだ。


 チンパンジーだが、ちょっとなにかが違っているような気もする。


 ラーメンに文句をいっていたハゲオヤジは顔を伏せたまま背中を尺取り虫のように丸め、そのまま微動だにせず、なにごとか低く唸っている。


 その向こう、酔客の左側に座っていたチンドン屋が立ち上がり、なんと静かに腰の剣を抜いた。そして表情を変えず流れるような動作で酔っ払いオヤジを見下ろし、上段に構える。


 おっと、おおっと、おおっとっと、お侍さま。おふざけはそこまで。何卒そこまでにしてくださいまし。


 カウンターに伏せっていた酔客がゆっくり剥がれるように後ろに倒れる。首がない。肩の赤い斬り口だけが見える。チンドン屋が斬首してしまったのだ。


 おっとろしい。……、おっとろしいこっちゃなや。


 斬るなら酔っ払いではなくてその後ろに仁王立ちしている巨体のチンパンジーのほうだろう。けれども、やはりチンドン屋と揶揄され罵倒された怒りが先にあったものらしい。


 名誉を重んじるってやつですね。しかし後になって冷静に振り返れば、なんと些細なことで恨みを抱く、と感じることも多いのではありますまいか。


 店内が暗くなった。厨房に飛び込んだ子分のチンパンジーどもが照明を壊したらしい。手慣れているのはプロの仕業だからか。チンパンジーの場合はプロとはいわないか。


 子分の1頭がボスになにかを手渡した。それを顔の前に掲げてためつすがめつしている顔を見て違和感の正体に気づいた。眼窩に奥まった目玉が大きく実によく動くのだ。


 ボスが手にしているのは、四角く身幅の巨大な中華包丁だ。厨房から持ち出したのだろう。それをボスがカウンターの角を回り込みながら振り下ろすと、「ギャッ」という声をあげて僕の隣の客が蹲った。水商売ふうの若い男だ。


 その悲鳴を合図にほかの客たちもようやく騒ぎはじめる。ざっくりと斬られた男の肩口から血が吹き出している。そこにさらにもう一撃、二撃、三撃。まるで獣の解体のようだ。若い男の上半身は楔形に切り裂かれてしまった。


 惨劇を繰り広げたチンドン侍とチンパンジーのボスが、戸外の明かりに照らされ相対して睨み合っている。ちょうど同じくらいの背丈に見える。


 この光景が現実のものだとすれば、世の中、まんざら退屈でもない。しかしそれでいいのだろうか。どうしてそんなことを考えたのだろうか。それはなにもかもがごちゃ混ぜの世界への見切り発車ではないのか。


 チンパンジーのボスが先に店の外に出て、その背中をチンドン侍が追う。チンドン侍はそのときはじめて口を開いた。鼻にかかった甘い声だった。


「亭主、傘を借りるぞ」


 出入り口脇の傘立てから抜いたワンタッチの黒い傘がバッフンと音を立てて開いた。雨は降っていない。


 その背後から厨房にいた子分のチンパンジーが躍りかかる。しかしチンドン屋は振り向きざま、しかし目視もせずに剣を一閃。簡単に斬り捨ててしまう。血しぶきが闇に光って虚空に弧を描いた。パラパラと雫が滴る音。なるほど傘は返り血を避けるためだったのだ。


 外が騒がしい。強烈なライトが点灯し1頭と1人を照らした。だがボスチンパンジー とチンドン侍は光を押し返して外に出る。また1頭の子分がチンドン侍の背後から飛びかかり、かわされ、ドサリと音を立てて落ちた。


 こっそり席を立って覗いてみると、さっき飛びかかろうとしたチンパンジーの上半身だけがいつのまにか切断され、床から斜めに外の建物を見上げている。しばらくキョトキョトと戸惑った目をライトに瞬かせていたが、やがて険しい表情になり、牙を剥き出して吠えた。シンバル・モンキーのゼンマイが切れて停止した瞬間と瓜ふたつだ。下半身はどこへいったのか。カウンターの内側か。


 店の前は警察に囲まれているらしい。チンパンジーが連れてきたのだ。そのライトのなかでチンパンジーのボスとチンドン侍が対峙する。店の客が転げるように逃げ出していく。


 片手に黒い傘を掲げ持ち、もう一方に剣を携えて摺り足で距離を縮めるチンドン侍。チンパンジーのボスの足元に向けた下段の構えの切っ先で「の」の字を描いた。


 円月殺法なら描く弧はもっともっと大きいはずなのだが。


 切っ先が小さく「の」の字を描く。そして、それからおもむろにその真ん中を突く。「の」の字を描いて、突く。「の」を描いて、突く。


 対峙するチンパンジーのボスは中華包丁を握ったもう一方の手をつき、前傾姿勢になり、ただ無表情にチンドン侍を見つめている。警官隊が盾を先頭に立てて近づいてくる。


 チンパンジーのボスが跳んだ。警官隊の盾に蹴りを食らわし、よろけた警官の顔を水平に切りつける。中華包丁はヘルメットをかすめて的確にその目を切り、親方は再びチンドン侍の前に降り立つ。


 チンパンジーのボスは明らかにひどく興奮していて、目玉をグリグリと回し、牙を剥き出した口元はエイリアンのように見える。


 店の中からなにかが飛んできて、それに腰が当たったチンドン侍がバランスを崩す。赤くヌラヌラと光るサッカーボールのようなものだ。警官隊がザッと靴音を立てて一、二歩前進する。


 チンドン侍が態勢を立て直しながらボスめがけて突きを入れる。剣の切っ先が滑りよくスルスルとボスの左胸上部に吸い込まれていく。


 最後に1頭残った子分チンパンジーの悲痛な叫びが夜の街に響いた。


 ボスが剣の刺さった体を捻ったので、チンドン侍は手から剣を奪われてしまう。とっさにもう一方の黒い傘で防戦しようとするけれども中華包丁の一撃で腕ごと叩き落とされてしまった。


「おおっ。おーっ」


 警官隊から嘆息混じりの怒号が上がり、横に並んだ盾が突進してくる。


 3頭の子分のうちの残った1頭が後ろのボスを気にしながら走り、ビルとビルのあいだの隙間に姿を消す。ボスもすぐその後に続き、それから2頭の姿は杳として見えなくなった。


 あれから2週間経っても2頭の消息は掴めない。ラーメン店から持ち出した中華包丁とチンドン侍の剣も所在がわかっていない。おそらく2頭が持ち歩いているのだろう。


 現場に残された体毛のDNA鑑定から、今回のチンパンジーは4頭とも都内の動物園で飼育されていた個体だと同定され、ほぼ毎夜、閉園後に檻を抜け出しては人を襲うなどし、朝がくる前に戻っていたと結論づけられた。ボスの名前はジョー。


 こんなことくらいは謎の生物騒ぎが起きて直ぐにわかりそうなものだが、実際にはすでに3週間以上経っている。そしてラーメン店での立ち回りからでも2週間。すでに新たにどこかで誰かを手にかけているかもしれない。


 片腕を失ったチンドン侍もまた入院先の病院から姿をくらましている。僕は会社に辞表を叩きつけた。夜の闇には気をつけなければならない。なにもかもがごちゃ混ぜの世界だ。自分が2代目チンドン侍にならないとも限らない。


                              (了)



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