〜 風の告白 〜 3. ビハインド・ザ・マスク





『ビハインド・ザ・マスク (Behind the Mask)』、イエロー・マジック・オーケストラが1979年に発表した曲で、エリック・クラプトンやマイケル・ジャクソンのバージョンでおなじみの方も多いと思う。

新型コロナウイルスの流行以来すっかり日常生活に定着してしまったマスクは、日本ではきっとこの先も帽子と同じような服飾アイテムのひとつとして延々と重宝され続けるだろう。いってみれば伊達マスクだ。

誰かがいっていたように、すでに“マスクは顔のパンツ”になっている方々も多いような気がする。ムスリムのブルカのように顔が隠される時代がくるのかもしれない。

これは子どものころから人さまの顔の鑑賞を趣味にしてきた私としてはしごくもっともなことに思われる。いままでは逆によく皆さんそんなにお顔を晒して平気ですね、といいたい思いだったのだ。

ルッキズム=見ため問題とかなり近接するけれども、顔にはその人の人となりがすべて現れる。

素直な人間は素直な顔をしているし、ひねくれた人間の顔はひねくれている。疑い深い人間と秘密を抱えた人間の目はよく似ている。なにかを頭から信じ込んでいる人間は熱に浮かされたような目をしている。

ちょうど選挙期間だからこういう意地悪な観点で候補者たちの顔を見てみるといい。ほんとうは、心の底では、いったいなにを目的にしているのかがうっすらわかる。正しい正しくない、善悪ではなくて、人間の顔はそのように心の奥底にまで反応するようにできている。

そういうものを、皆さんよく人前に晒して平気でいらっしゃるものだ、と常々考えていた。

私の場合はさらに深刻な理由があって、外出にマスクは欠かせなかった。いつもニヤニヤしているからだ。バカみたいだが、見るもの見るものなにか考えてはおかしくて知らず知らずニヤニヤしてしまう。我ながら嫌なくせだ。もしかしたらほんとうにうすらバカなのかもしれないが。

とうぜんこれには立腹される方もいらっしゃるので、たとえば販売店の店員に相手にされなかったりなどというのは日常茶飯だった。話せば面白いやつなんだけど。というわけでマスクは手放せないのだ。

私の場合は極端な例だけれども、皆さん人前で顔を晒すというのは多少なりともそうしたリスクを負うことだったわけだ。無防備にも。

顔を読み取るチカラみたいなものがまだそれほど浸透していないのかもしれない。

考えてみれば人さまの顔をこんなに頻繁にしげしげと眺められるようになったのはテレビが普及したここ70年間程度のことで、それ以前は人さまの顔はしげしげと眺めるものではなかった。そんなことは無礼きわまりない行いだったのだ。だからこそ人の顔つきのデータを集めた人相学、人相占いなどというものが商売になっていた。

が、こうして大勢の方々が顔を晒し、それをまた画面などを通して遠慮なく眺められるようになったいま、人相学、人相占いの命運は風前の灯であろう。

顔面のエステテーク、美学もそういうわけでまだまだ未熟な段階にあるのだろうと思う。化粧、整形美容などは潜在的な一種の素顔隠しの一面ももっているのではないか。まだそのレベルなのではないのだろうか。

マスクももちろんしかり。私は初対面の相手でも顔を見た瞬間にどんな人物か、自分に合うか合わないかが判断されてしまって少し困ることもあった。すぐニヤニヤするし。その点では、マスクをしてもらえると少なくとも挨拶から軽い世間話くらいまでは時間稼ぎができるのでありがたい。

最近のひどく劣化した日本人の顔など見たくない、という気持ちもあるし。そうそう、この劣化の仕方についてもいつかふれよう。

今回は、自分はさておき勝手なことばかり、たいへん失礼した。





                            (了)





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