週日記 ~8/11 浮かばれない軒先
08/05 野蛮コミュニケーション
英語で発表しなきゃいけない会があった。
英語が苦手なのは中学で英語の勉強が始まって以来ずっと(have been)なんだけど、感覚としては勉強が苦手というより体育の球技が全然できなかったようなのと近い。
こっちにボールが飛んで向かってきているのは分かる。でも移動するそれの位置を正確に認識することができない。どこに落ちてくるのか分からない。そもそもボールが飛んでくるのが怖い。
「野蛮」だと思っていた。野蛮だよ、こんなもの。
周囲の人に比べて明らかに自分はできないのに、フィールドに投げ込まれたとき、外界環境を否定し、逃避・自己正当化のために用いられた表現。
英語を使わなければならない環境に放り込まれたときも、同じように思う。運動神経みたいに、言語神経みたいなものもあるんじゃないか?
でも、外国の人とコミュニケーションするにはバスケットボールをしないといけません、な世界じゃなくて良かったと思う。
08/06 野蛮コミュニケーション・その2
野蛮言語で質問を受けたときは、[それまでに説明していなかった新事実を持ち出さずに回答すること]を心掛けることにした。
完全に正しく十分な回答をしようとして新たな事実や説明を持ち出すと、次はその回答に用いた新事実について質問される可能性が高い。それが連鎖的に続けば、最終的に「ちょっとこの概念は日本語でなら言えるけど英語で言うのは無理だよ〜」となる危険性が十分に考えられると思った。
あとから考えたことだけど、このやり方は非野蛮言語による対話においても有用である気がした。
僕は説明に整合性を強く求める方で、自分で説明していても「~~。まあ、〇〇の場合は例外だけどね」などと不整合点回避文言をやたら付け足しがちな気がする。それで話も長くなっていると思う。
一気に完全な説明をしようとせずに、それっぽい説明で止めておく。質問されたらその部分だけ答える。情報を小出しにしていく。そういうやり方も身に付けた方が良いかもしれない。
08/07 節約術
ちょっとだけビール飲みたいなってとき、水飲めば大体落ち着く。
暑くて「あちー!」って言うとき、こっそり「achieved!」と言って毎回何かを成し遂げたことにしようかな。
08/08 気象庁
「宮崎で発生した地震に伴い、南海トラフ地震の危険度が相対的に高まりました」って、そりゃそうだろだろ と思った。
もし地震予知ができたとしたらどうするか考えた。おそらく予知できる事実と身元が割れれば公安とかに捕まり、研究対象になるだろう。
「なんか俺が出張に行く先々で地震起こるんだよな、次の3月に岩手行くけど大丈夫やろか……」みたいなネットの書きこみでもして、多少の警戒を促すくらいか。
予知業で儲けるのは難しいかもしれない。
08/09 CAD
3Dプリンターを使える環境が用意されたので、CADを始めてみた。
Youtubeに "初めてのCAD" みたいな動画を上げてる人がいたので1時間くらい視聴したところ、「え、CADって作れないもの無くね?」という気持ちになった。
面白いもの作るぞーと意気込んだものの、自分には美術造形のセンスが皆無であることに気づき、四角の組み合わせでできる物から始めることにした。
四角と言えば家、典型的な家としてミッフィーの家を参考にして作った。
いいかんじ。
08/10 CAD・その2
CADで作った家を3Dプリントしてみた。
3Dプリンターは溶かしたフィラメントを下層から積み上げていくため、軒先のところでは宙にフィラメントを落とすだけになってしまい、失敗してしまった。その後屋根を支えるサポート材を多めに仕込むなど試行錯誤してみたが、結局うまくいかなかった。
ただ、自分の頭の中にあるものをパソコン上で表現して、それが有形物として出力されるのは面白いなと思った。
08/11 次のマリオはもとのマリオと同一か
亜人の話をした。僕は劇場版しか見ていないのでそんなに詳しくないのだけど、亜人は死んだら生き返るという能力を持つ、死ねない人。生き返りに伴う身体の再生能力もある。
(ネタバレあり)
物語の中で、ある亜人が片腕を切断され、腕が隔離されてしまう。亜人の能力は死なないと発動しないので、腕が再生することもなく回復しない。しかし彼は、木片工場で粉砕機械に入り自ら粉々の死を遂げることで、左腕を起点に再生して生き返る。
この生き返った亜人ともとの粉々になった亜人は同一人物として捉えるべきか、別人として捉えるべきか、という話をした。
体組成、記憶、意識などは新旧個体で引き継がれ、新旧個体が同時に生きている状態はないという前提で考える。
僕は、同一人物派として意見を述べた。
亜人の上記性質は次のように理解できる。
まず、この世界が何かのプログラムによって動かされていると考える。風景も、動物も、僕ら人間一人一人も、それぞれを表現するプログラムによって表されている。世界の本質は僕らが見ているこの世界ではなく、それを表現するプログラムたちにあると考える。
ここで、亜人の死について考える。亜人が死んだとき新しい個体が誕生しその中身が完全に同じだとすると、それは、当該亜人を表現するプログラムのアドレス指定が変わっただけだと捉えることができる。このように考えれば、体組成、記憶、意識などは新旧個体で引き継がれ、新旧個体が同時に生きている状態はないという前提を満たすことができる。
つまり、亜人の新個体への生き返りは、アドレス指定が変わっただけでその人物を表現するプログラムの内容自体は変わらず引き継がれるものだといえる。それは、その人物の本質が同一であることを意味する。
本質が同じならばそれは同一人物として捉えるべきだろう。
この結論は飛躍を含むし、イデア的考え方などを参考にした議論の余地はあるが、僕はこう考えると自然に解釈できる気がした。
これは、マリオが死んで生き返ったら別人か?という例えをすると分かりやすいかもしれない。テレッテテレレレ♪ というレクイエムとともにマリオが死ぬと、残基が1減ってマリオが復活し、再度プレイできる。このとき、新旧マリオは体組成、記憶、意識などを引き継ぎ、同時に生きている状態はないとする。マリオを形づくり表現する情報(プログラム)は更新され、引き継がれているため、マリオの本質部分は変化していない。
この新しいマリオは、別の人物ですか?それとも同一人物ですか?
読んだ(読んでる)
なし
観た(観ている)
・SPY×FAMILY Season 2
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