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自由が増えるとは決断が増えるということ


2日連続で、お金の話を考えてnoteに書いてきてふと気づいたことがある。

自分が「自由じゃない」と思うのは、

例えば現状

「フランス行こうよ〜」

って言われても、ひとり何十万か〜ってなると気軽に「行こう!」とは言い難い。

しかしもしお金がある程度入ってくるようになれば、「行く!」って具体的に話できたりする。

ただ、現状、たとえフランスに行かなくても幸せなんだよね。古民家での夫とネコ達と周りの人たちとの日々が充実してるし。

だから絶対行きたいわけでもないしどっちでもいいんだけど、もし、今はお金の制限のおかげで選択肢が自宅に残るしか(ほぼ)ないから、選ぶ必要ないけど、

お金が自由に使えるようになったら、「行くか」「残るか」の決断になるんだな、と思った。

そうか、今までだったら「お金がないから」という理由で、ある意味考えずに済んだ選択肢を、今度は自分の意思で選ばなければ無くなるんだ。


そういえばこれと似たような感覚を持ったことがあった。

それは、「時間の自由」を得た時。会社勤めだと、「次何をするか」ほとんど考える必要がなかった。就業時間が決まってるから。でも自由になったら全部自分が決めないといけなくて、それが正直苦痛に感じたこともあった。

このことについては過去に何度かnoteにも書いている。

全部自分で決めるということは「直感を研ぎ澄ますこと」「自分のしたいに忠実に生きること」「自分の軸をしっかり持つこと」が必要になる。

うっかり、「〇〇さんはこうして欲しいんじゃないかなあ」とか「世間の常識ではこっちかなぁ」とかで決めてしまうと後で後悔したりする。

恐ろしいのはそれを無意識でやってしまうこと。自分の中で「人のために」とか「無難に」と振る舞うのが当たり前になり、思考の癖になってしまっているのだ。

よく、そういう癖で決めてしまって後から気づいて「しまったー!」となってしまう。

お金の自由を得るということは、「決断の機会」が、さらに増えるということなのか!

なんでこった!


本当の本当にやりたいことは、どんな手段を使ってもやる。それはいい。

だけど、割とどっちでもいい時は?

どっちも楽しそうな時は?

もしくは

自分の感覚が死んでいて、純粋な気持ちで選べない時は?

自分の望みと他人の望みの間で混乱している時は?


しかし、自由を求めることが、決断力を鍛えること、つまり、自分軸をしっかり立てていくことなんだな、と再認識したのはよかった。

だから、私は今お金の自由を得ようとしているんだ。

時間の自由と取り組んだ時、一番大変だったのは、時間を得ることじゃない(それは会社を辞めたらわりとすぐ得られた)それよりも、自分の中の「時間はこう使うべき」とかそこから派生する「時間がない」という思い込みを外していくことだった。

「週5日は働くべき」という思い込みが外れないと、なんか5日は働くっぽいことしないと!って焦ってしまうし、「未来のために今頑張らないと」という思い込みが外れないと、今のんびりするということが心からできない。

お金に関しても、実際のお金があること以上に、その辺の思い込みを外していくことが重要になっていくのかも。

どんな思い込みが出てくるのかな?
(ワクワク・ドキドキ)


それでは、今日はこの辺で、ホニャラ〜


▼ホニャラノイエで語り合いましょう。岐阜で待ってます。

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