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センスについて考えてみた

前提

書き始める前に、いくつか前提を共有させてください。

 まずは、この記事に関して「センスとはこういうものである」というような確固たるものの説明ではありません。あくまで色々と材料を持ってきて、「だから私はセンスというものをこのように理解しています」といった紹介になることをご承知おきください。ですので、別視点(例えば、認知神経科学や美学、哲学や生物学など)で見たらきっと違う見え方をすると思います。其の際は、ぜひそちらの見方も教えていただけると嬉しいです。

センスについて

 さて、センスについて書くとのことですが、その前に一般的解釈として辞書ではどのように説明されているのかを見てみましょう。

物事の微妙な感じをさとる心の動き。微妙な感覚。「──がある」「ユーモアの──」▷sense

岩波国語辞典 第五版

 手元にあったのが第五版だったのでそれをそのまま使いました。ちなみに、コトバンクに掲載されている『精選版 日本国語大辞典』の説明を見ると、感覚や理解の仕方、表現などに現れ出るとされていますね。
 感覚や理解の仕方とはなんでしょう。これを理解するのに、五感を例に出してみようと思います。例えば、視力は無理やり”a sense of sight”と英訳することができます。つまり、見るセンスですね。
 下の画像は目が悪いと画像に書かれた文字が見えるといったものです。脳の補完能力によって見えるらしく、普段から目がぼやけていると下の文字が見やすいんだとかなんとか。

出典:吉永龍樹(ヨシナガタツキ@僕秩) (@dfnt)さんのツイートより

 視力を目の力ではなく、脳の補完能力も含めたビジュアルとして感じ取る力だと解釈するのであれば、この画像は視力というセンスによって各人で感じ取れる像が異なることになりますね。
 別の例を挙げるなら、虹の色が国によって何色か違うだったり、味の濃い薄いが分かれたり、様々な部分でセンスによる差を見ることができます。
 こういった物事を理解をする上での翻訳機のようなものが、センスという人間に備わる内的な仕組みなのではないか、とここでは理解してみようと思います。
※下図は対象からのシグナルを変換して伝えているイメージ図です。

出典:著者作成

センスのかたち

 上記では1つずつのセンスについて見ましたが、普段、物事を理解しようとする際には、同時に複数のセンスが動員されるのではないでしょうか。
 例えば、山間やまあいの町に立ったときは、視覚的な情報だけではなく、人の声が聞こえたり、ご飯の匂いがしたり、地面のタイルを足で感じたり、場合によっては昔の思い出が回顧されたりと様々な情報がわたしに届き、センスというフィルターを通して理解されていくように思えます。その総体を「エモさ」だったり「おしゃれ」だったりといった言葉で形容するのではないでしょうか。
 つまり、何かをよい/わるいと感じるとき、「ここがよくない、ここがよい」とすべてをチェックした上で判断しているわけではないように思います。何かがもやっとする、何かが親しみ深いなど、センスによって翻訳された情報の総体は、あまりに色々な種類の情報が混ざり合い、全体を表そうとすると抽象的なものにならざるを得ないのではないでしょうか。
 下図は、各センスの感度の強さで描写される図形が変化するイメージです。このイメージでは軸(感度)は一種類ですが、正確には写真の編集の彩度、明度、などのように様々な切り口が存在し、より複雑な3Dのイメージになるような気がします。(通じるかは分からないですが、モヤッとボールのような形にもなるかもしれません)

出典:著者作成


エモいという形容について

 これまでに、同じものを見てもそれぞれの切り口とセンスによって私たちの内面に映し出されるものは変化するのではないかという理解を共有しました。次に、映し出されたものをどのようにエモいかどうか判定するのかという問いですが、エモさにもみなさんが共通のフレーム(形)を持っているようには思えません。
 「どこからが浮気?」のような話題の答えが人によって違うように、この「エモさ」という概念もとても曖昧模糊としており、あたかもみんなで同じフレームを共有しているようで、そのフレームはまるきり同じということにはならないような気がします。
 であれば、一人ひとり全く違うものを見ているのか、と言われるとそれも違うのではないでしょうか。つまり、概念を共有する場合、ある程度の共通項を持つのではないかということです。例えば、浮気は「悪い」「背信行為」などは全てではないものの多くの方に共通する理解な気がします。
 下図は、みんなが共通に持つイメージ(共通項)と共通しないイメージ(独自項)の図になります。これはこの概念を共有する人数が増えれば増えるほど独自項の割合が増え、共通項の割合が減っていくのではないでしょうか。それに影響して、エモさという概念が登場した当初はみんなの共通の割合が高く同意できるものが多かったものの、概念が浸透するとともに、独自項の割合が増し、「そうだよね」と頷けるものが減ったのではないかと思います。

出典:筆者作成

まとめ:エモさについて

 さて、ここまでで、センスについてとエモさについて私の思うところを書いてきました。あちらこちら行ってしまったので、ここで整理をしてまとめとしようと思います。

① センスは物事を感じ取る力、つまり物事を理解するための翻訳としてみました。
② センスは多種多様にある情報それぞれに対して機能し、その翻訳の仕方によってわたしたちの内面に浮かぶ像(実際はもっと曖昧模糊とした感覚)は異なるのではないか。
③ そういった像に対して、自身の思うエモさのフレームを当てることで、それをエモいと思うかどうかを判断するのではないか。
④ そのフレームは、それぞれで存在しており、共通するものもあれば、そうでないものも含むものになっているのではないか。

出典:筆者作成


以下、おまけ。


センスに影響する社会(準拠集団、ハビトゥス)

 では、こういったセンスはどのようにして存在しているのか。そもそも本当にみんな違うのか、といったところを考えようかと思って「共通感覚(sensus communis)」などの話を入れようと思ったのですが、長くなりそうなので割愛しました。ごめんなさい。

 なので、前提を追加して「社会的な存在である人間」の持つセンスは社会に影響を受けているのではないかという立場に立ってみようと思います。つまり、仮に生得的な共通のセンスがあったとしても、それは自身を取り巻く環境や社会の影響を受けて変質するのではないかという立場です。
 この立場を考える上で、まず社会学の「準拠集団」という概念を参照してみましょう。これは『現代社会学事典』によると、”自己の態度や価値を形成し行為する際に、自らと比較することによって影響を受けることとなる集団のこと”(弘文堂、2012年、p.650)とされています。例えば、自分を学生と認識しているときに、「この行為は学生として正しい(もしくは正しくない)行為か?」と考えたり、Choiceになりたい人が「Choiceならこう振る舞うのが自然だろう」と行動したりするときに参考にしている集団です。
 対象となる集団に倣うならうとしても反発するとしても、何かを参考にする形で行動に影響が出ていることになります。
※下図は極端かもしれませんがイメージです。

 こういうことを言うと、いや、センスってそういう意図的なものではないでしょうと言われるかもしれません。無意識的な価値判断(例えば、これはエモいと感じるか否かといったもの)がセンスなのでは?と。
 それなら、もう一つの概念を参照してみましょう。それが「ハビトゥス」と呼ばれるものです。『現代社会学事典』によれば、ハビトゥスとは”所与の特定の環境のなかで習得され、身につけたものの見方、感じ方、ふるまい方であり、ほとんど意識的に方向付けられることなく作用する性向”(上掲、p.1040)とされています。雑に言えば、個人や集団が何かを知覚し、判断し、行為や反応をする時に参照するものになります。

 2つを参照してみて、思ったことがあります。どちらもセンスに影響はするものの、センス自体の話はしてないですね。おまけにします。

調整としてのセンスメイキングは別記事にしようかと思います。

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